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縁で錦を織る為に

ご縁ってあるんだな、」と思うことがあった。

縁とは「えにし」とも読み、その意味は「つながり」だ。

先日、とあるお仕事で知り合った方が、私と同じ出身地の人でかーなーり驚かされた。お相手のプライバシーも考慮して細かには説明しないけれど、宝探し系のYoutuberが金属探知機ナシに古銭見つけるレベルのレア事態なんじゃあないかと思う、マジで。

上京してくる人は、上京というくらいだから、つまりこの日本全国から寄せ集められてくるのだもんで、数として物凄く多い。しかしその中で、たとえば私なら「北海道」から更に狭めた「出身地」というレベルで同郷の人に出会うことは、なかなか無い。というか無いっすわさすがに。

mixiに昔あった「mixi同級生」という機能で、同じ学校だった人を探して都内で対面したことならある。定時制に行っていた彼女と全日制だった私は、同じ学校だったとはいえ初対面だった。知り合って以降はけっこう長く友達付き合いしたものの、彼女が故郷へ帰ってしまって以来、疎遠な仲だ。幸せでいてくれたら嬉しいな、そう思う。

ともかくそういうレア事態に遭遇し、私は嬉しかった半面、だいぶどぎまぎした。

故郷となぞ今はほぼ縁が切れたも同然だった私に、突如「バスケ部だった〇〇くん」とか「美少女だった〇〇ちゃん」の話が通ずる人との出会いが訪れてしまっては、そりゃあ私の思考回路もショート寸前になっても仕方ないことだろう。

夫とも「もはやオカルト」と話すくらいのレア事態。しかし、よくよく考えていくと私は、ふと「ああ、もう私は地元に対して牙を剥く必要が無くなったってことなのかな」、そう思えたのだ。

母親とも距離を置いているし、帰る実家が無いならば、地元なんてあったってしょうがない、そんな風に思っていた。

なのに、地元がいきなしひょっこり「縁」を伝って私に顔を見せてきた。

同級生とてもう殆ど関わっていない。私のことを嫌いな人にも心当たりがあるし、私が生きているか死んでいるかすら疑問を抱く人とていることだろう。

それでもこうして、地元との縁をまた感じられたということは—私は、もうその鋭く磨いた牙を、りんごでも齧ることに使ってしまっていいのかも知れない、そう思うのだ。

お相手もとても驚いていた。それでもメールのやり取りで「これも何かのご縁」だなんて言われると、社交辞令であったとしたってやっぱり嬉しいものだ。

「故郷へ錦を飾る」なんて言葉がある。仕事を成し遂げて名声を得て故郷へ帰る、そんな意味の言葉だ。コロナ禍もあるし私のホームはもはや埼玉だし「故郷へ帰る」の部分は合致しないけれど、それでも「故郷へ錦を配達してもらいたい、クロネコか佐川で」、それくらいはやっぱり願ってしまう。

昨年、童謡カバーのアルバムを出した。その中で私は「ふるさと」を歌った。

「ふるさと」の歌詞の中に、

こころざしをはたして いつの日にか帰らん

という部分がある。

ここを歌い上げる時、不覚にも泣きそうになった。だから声がちょっとひっくり返りそうになりかけているのだけれど、それもまた良しと思ってそのまま配信に出した。人間だもんでボカロみたいに完璧にはなれないのよ。

私の「こころざし」が一体何なのか、私自身にもまだ掴み切れないけれど、ただ、私のふるさとは私のふるさとで、やっと私に「おかえり」を言ってくれるようになったのだな、そんなことを感じてしまった。

だから心の中で、そっと「ただいま」を言おうと思う。

今回の仕事、どうかうまくいきますように。錦の一部分にそれを、織り込むことが叶いますように。

頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。