心に留めるは「考え方のアップデート」
時代が大きく変わっていっているのだな、と、ここ最近は特に強く感じられる。
世を賑わすニュースは大概、たかだか10年前にはこんなことが起こるとは理解できなかったであろう内容だ。歌い手という属性はあったと思うけれど、Vtuberなんて存在はまだなかったはず。スパチャというものが時に、水商売のおねえさんやおにいさんに大金をはたく術に対して大同小異であることも、10年前ではなかなか想像のできない展開だっただろう。
児童ポルノ的な噂も耳にするし、けして擁護するつもりは無いことを前提に置くけれど、トレスが—という件に関しても、いにしえの漫画家もやっていたとかそういう話もあるので、重ねて言うが擁護するつもりは無いにしても「昔なら問題にされなかったこと」が晒しあげられる、という事例が今の世の中にはとんと多い気がする。
もちろん、昔なら問題にされなかったから「良い」というわけでは無い。悪いことは悪いに決まっている。
しかし、なんというか—ここ最近の世の中は「悪を晒しあげて匿名で追い詰めること」に対して、そこで勧善懲悪を体験したつもりになっているのかな、という感想を私は持った。そう、テレビがお茶の間の中心であった頃には、たとえば時代劇で金さんや水戸黄門が代わりにやってくれていた、勧善懲悪を。
ところでこの間、警察24時的な番組を夫が嬉々として見ていた。
私は、たとえ悪代官とはいえ「追い詰められている」シーンに胸がざわざわするので、正直なところ警察24時系の番組は苦手だ(お巡りさんは尊敬している)。共感性羞恥とか失敗恐怖症というものに近い感覚らしい(参考にした記事のリンクはこちら)。
なので番組はあまり見ないようにしながら、家事を進めつつ、ふと思いついて夫に訊ねてみた。「ねえ、どうして警察24時系の番組が好きなの?」
「悪い奴が捕まると、ざまあみろって思うからだよ。」
夫は何の迷いもなく即答した。夫も警察24時的番組に、勧善懲悪を求めていたということか。
この辺りで話を戻そう。「昔なら問題にされなかったこと」が晒しあげられることについて考察すると、これはもはや人々の考え方にアップデートが必要とされている、ということなのではないかと思うのだ。
昔なら許されたから大丈夫、という時代では無いのだ。
とはいえコンプライアンスがうるさいからテレビが面白くなくなったとも言われるし、実際にガキ使の無い大晦日はつまらなかったなと私も感じている。
ただ、だからといってセクハラが横行したり、ブラック企業がのさばっている状態をそのままにしていいわけでは無いのは明確だ。
理想としては勧善懲悪が(時に誹謗中傷を含みながら)ネットの中で行われるのではなく、リアルな場で「改善」として行われていって欲しいと思う。たとえばテレワークでいいものはテレワークのままでいこう、とか、出社したい社員がいる場合はその人に合った仕事を振ろう、とか、そういう「悪」の正体が「人」ではなく「内容」である場合の勧善懲悪が目に見えて増えていったならば、人々の鬱憤も正しく晴らされるのではないか—甘い考えなのだろうけれど、そんな風に感じる。
先日も、虐待の連鎖によって悲しい事件が起きた。
この事件についても「やっぱり女はバカ」とかそういったコメントがたくさんついていたのを某所で見かけた。「もっと支援について考えていかねば」という意見はごく少数だった様に感じられる。
負の根本を正せられたならば、未来はもっと違うことだろう。
考え方のアップデート、まずは自分から根気よく続けていきたい。本当にこらしめるべき「悪」とはどこにあるかだって、自らのアップデートの先に見いだせる気がするから。
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