ぐしゃぐしゃなスモックの「ファッションショー」

幼稚園の頃、担任の先生に嫌われていた。

そのプロテスタントの幼稚園は、早い子は3歳から受け入れて貰えて、卒園まで担任が変わらなかった。私は3歳から幼稚園に通い、当時50代くらいの女のK先生のクラスに属していた。

私はとにかく不器用な子どもで、折り紙を上手に折れなかった。しかし絵を描くのは得意だったし、使う色なんかにも幼稚園児なりのこだわりがあった。だから「絶対に私は、こんな色の折り紙で、このお花を折ったりはしない!」というこだわりも発生していた。なのにK先生は、誰かがぐしゃぐしゃに折った折り紙の花を、私の否定も聞かずに「何言ってるの、これは雪さんのでしょう!」と私のお絵描きノートに貼り付けた。

自分のでない作品を自分のモノと決め付けられ、しかもそれは私が選ぶはずの無い色をした花。そんな花が貼り付けられたお絵描きノートの一頁は、私にとって異様なものでしかなかった。K先生は、下手糞な折り紙は総て私の折ったモノと決め付けて疑わない人だった。

とある日の「お帰りの会」の時間、私のスモックは斜め掛けのかばんの紐に巻き込まれてぐしゃぐしゃになっていた。幼稚園児なんてそんなものだろう。なのにK先生は、「不器用な雪さんがまたやらかしました!」と言いたげに、私を皆の前に立たせ「ファッションショー!」と嬉しそうにぐるりと一回転させた。思えば、園児にそんな姿を見せ「ファッションショー」だなんて言ってみせたって、何を言わんとしているか、どういう皮肉か、誰も理解出来なかったと思う。だもんで、K先生はわざわざその後、「雪さんのスモックが紐でぐしゃぐしゃになっている。これは、気をつけてかばんを肩に掛けなかったせいだ。」的な解説を、皆の前で行った。だから私もやっと、「ファッションショー」の意味を理解した。幼稚園児ながら私は、なんとも無様な気持ちにさせられたのだった。

あれからこんなに時間が経ったというのに、私はK先生のそんな言動をけして忘れていない。

今の時代に先生がそんなことをやらかして、私の様に変なことだけ記憶している子どもに、家庭でその内容を喋られたら、恐らく大問題に発展するだろう。園を辞めさせる親御さんだって居たっておかしくない。折り紙のことだけならさておき「ファッションショー」は、仮に自分の子ども(いないけど、)に対してなされたならば、私ならとりあえず園長先生に訴えてみると思う。

私は子どもの割りにほんの僅かに物分りのいいところがあったらしく、直感で「K先生はそういう人なんだ、」と認識し、彼女に対して諦念の様な感覚を抱いて園児生活を送ることにした。だから母にも特に告げ口せず、ひりひりする様なK先生からの意地悪を、偶に受けてもスルーして過ごした。


20歳を過ぎた頃だったろうか、何かのきっかけで私は、母にK先生とのことを話した。折り紙のこと、そしてあの「ファッションショー」のこと。すると母は笑っていた。笑いながら、こう言った。「あの先生ならねー、そういうところ、あるかもね。」


私の母は、私が小学一年生だった頃、手癖の悪いコにキーホルダーを盗まれた時も、私の話を信用してくれた。「本当に、そのコがやったのね?違わないね?」…当時、そのコの周囲でがんがん物が無くなり、学校には極力「盗まれたくない物は持っていかない」というのが暗黙の了解になっていた。けれどもそこは小学生、みんな何かしらを自慢したくて持ってゆく。そうして、盗まれる。それがずっと続いていた。

あのコがやっている、というのは、大体みんな理解していた。盗まれた物を自らの物として自慢げに学校に持ってくる、そういうコだった。証拠が無いから皆、何も言えなかった。だから私も母に言った。「証拠は無い、けど、あのコだと思う。」「違ったらどうする?」「違わないと思う。」

「…わかった、じゃあ、ママが直接あのコに電話して聞いてみる。いいね?」

母の言葉に、私は一瞬、ビクりと恐怖が沸いた。けれども私は、キーホルダーが確実に盗まれたことに強い怒りを持っていて(金具の形状的に「落とす」はありえなかった)、その怒りのほうが、万が一自分が間違っていた場合の恐怖より、勝ったのだ。

今考えれば、物凄くムチャクチャなことだ。けれども母は、本当にそのコの家に電話をしたらしかった。鍵っ子のそのコの親御さんがいない時間を狙ったのだと思う。結果「盗んでないって、違うって言ってたよ?」と、私は母に叱られた。けれども数日後、傷だらけになったキーホルダーを、そのコ本人から手渡された。「私の住んでる団地の掲示板の所に置いてあったの。」、それがそのコの言い分だった。

今思えば母は、そういう結果になることを見越して、あのコに電話を掛けたのやも知れない。

買ったばかりで、青い真珠の様な独特の質感をしていた、鈴のキーホルダーだった。久しぶりに会ったおばさんが買ってくれた、お気に入り。それはどんな小学生をもときめかせるような、本物の真珠の様で、あのコはそれが欲しくなったのだろう。そして盗み、したらばまさかの私の母から電話が来たものだから、言い訳をして適当に私にキーホルダーを返そうとして…悔しくなって、思いっきり傷つけたのだと思う。

「あいつの団地、そんなキーホルダー置いておけるような掲示板なんて、ねぇよ。」経緯を知っていた男子が、私に言った。つまりはそれが、周囲からのそのコへの審判だったということだろう。手癖の悪ささえ無ければいいコだったから、そのコがいじめられたり、そういうことはその後無かった。高学年までには盗みがどうとかも立ち消え、中学では私とも擦違えば挨拶するような、そのコとはそんな関係に終わった。


前置きは長くなったけれど、母はそんな風に、元々娘の話を疑わない人だったので(今はもう精神の病に冒されているので、記憶が曖昧になってきているけれど)、K先生の件もすんなりと信用してくれた。そして「あの先生はね、園長先生に片想いしてたのよ」と、思わぬ話を始めたのだ。

それは、知っている人は知っている、そんな話だったと言う。牧師さんであった園長先生は当時、50代くらいだったろうか。同じ位の年齢の奥さんも先生をしていて、夫婦で幼稚園の敷地内にある一軒家で暮らしていた。

ーあんたのお兄ちゃんは自閉症で、どこの幼稚園も保育園も受け入れてくれなくって、やっとあすこの幼稚園が受け入れてくれたの。お兄ちゃんの担任もK先生で、あの当時からK先生は、あんたのお兄ちゃんという存在を、園長先生との関わりに「利用している」ふしがあった。でも、他に何処の幼稚園も受け入れてくれないし、お兄ちゃんを虐待しているとかお兄ちゃんが困るような、そういう問題があったワケでも無い。だから私はその件に関して、見て見ぬふりをすることにした。只、あんたのお兄ちゃんはK先生にとって、園長先生と必要以上に関わろうとする為の、都合のいい存在だったところはきっとあると思う。だからね、あの先生があんたに対してそんなおかしなことをやってのけたのだとしても、ああ、そういう人だったんだろうなって、私には思えるの。

園長先生に「その気」は全く無かったらしい。彼は至極まっとうな牧師さんだったのだ。お兄ちゃんは卒園後、小2で亡くなった。そうして私が産まれ、やがて私もあの幼稚園に入った。一人っ子で近所に遊べる友達もいないからと、三歳児保育を受けることにして。そしてK先生は私の担任となった。不器用な私は、K先生のよろしくないターゲットに選出されてしまったのだ。


K先生は私が卒園したタイミングで、離れた土地の実家に戻った。お歳をうんと召されたお母様との二人暮らしを始めるとのことだった。小学一年の夏、私と卒園生の数人が、K先生のご実家でのお泊り会に呼ばれた。何故私が含まれていたかといえば、PTAなんかで活躍していた人のママ友グループに、うちの母が紛れ込んでいたからだろう。昼間は水場のある公園で遊ぶこととなり、私は早速「必要以上に濡れた、」とK先生に叱られた。他の誰も、濡れたことを叱られたりはしなかったのに。

その後のK先生を私は知らない。その幼稚園には既に、私の頃の先生は居ない。どういうシステムか知らないけれど、園長先生夫婦もご退職された後、園の敷地内の一軒家を出なければならなかったらしく、町内の古いアパートに引っ越されたそうだ。それももうだいぶ以前、ご夫婦がご健在であるかどうかも、私には判らないままだ。

今朝Twitterで「娘の幼稚園の先生がこんなにいい人で…」というエピソードをお見掛けし、ふと、K先生のことを思い出したのだった。モンペなんて言葉もあるけれど、昔は今よりももっと、幼稚園教諭とか保育士の先生の中に、おかしな人がたくさん居たように思う。今は本当に、真摯になって子どもを看てくれている先生が多いのに、先生方の負担がかなり大きく、尚且つお給料の低い時代だ。もっとどうにか出来る世の中に変わって欲しい。

そして小さな子どもに行った「ファッションショー」が、その子どもがこんなに大人になったとて、記憶にしっかりと刻まれけして忘れ去られないという事実も、日本に未だK先生の様な先生が居るならば、覚えておいて欲しいと思うのだ。



頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。