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救われ難きが救われていく道【歎異抄から人生を考える】#003

浄土真宗で大切にされている『歎異抄』(たんにしょう)という書物がある。

人間の常識を覆すような鋭い言葉の数々が綴られ、読み進むにつれ、我々のもつ常識や価値観が揺さぶられていくような感覚を覚える書である。

そこに扱われているテーマは、善悪や人間の本質、生と死の問題などと深い。

時代を超えて問題となる、普遍的な内容がそこに記されている。『歎異抄』を通して、人生とは何かについて考えてみたい。

本日は、『歎異抄』シリーズの3回目。『歎異抄』の「前序」と言われる序文について見ていきたい。

◆『歎異抄』前序

【本文】
ひそかに愚案(ぐあん)を回(めぐ)らして、ほぼ古今(ここん)を勘ふるに、先師(せんし)の口伝(くでん)の真信(しんしん)に異なることを歎き、後学相続(こうがくそうぞく)の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁(うえん)の知識によらずは、いかでか易行(いぎょう)の一門に入(い)ることを得(え)んや。

まつたく自見(じけん)の覚語(かくご)をもつて、他力の宗旨(しゅうし)を乱ることなかれ。

よつて、故親鸞聖人の御物語(おんものがたり)の趣(おもむき)、耳の底に留むるところ、いささかこれを注す。ひとへに同心行者(どうしんぎょうじゃ)の不審(ふしん)を散ぜんがためなりと云々。
(『浄土真宗聖典 註釈版第二版』八三一頁)
【現代語訳】
私なりにつたない思いをめぐらして、親鸞聖人がおられた頃と今とを比べてみますと、この頃は、親鸞聖人から直接お聞かせいただいた真実の信心(阿弥陀如来の救いを疑いなく信じる心)とは異なったことが説かれていて、歎かわしいことです。これでは、後の人が教えを受け継いでいくにあたり、疑いや迷いがおこるであろうと思われます。真実の教えに導いて下さる方に出遇うことがなければ、どうして南無阿弥陀仏と称えて救われていく道に入ることができるでしょうか。

決して、自己流の見解をさしはさんで、阿弥陀如来のはたらきによって救われるという教えを乱してはなりません。

そこで、今は亡き親鸞聖人がお聞かせくださったお言葉のうち、今も耳の底に残って忘れられないお言葉をいくつか書き記します。これはただ、同じお念仏の道へと心を寄せる人々の、教えに対する疑問をはらしたいから記すのです。


◆親鸞聖人が直接語られた言葉

『歎異抄』は、お念仏の教えが異なって伝えられていることを歎き、同じお念仏の道を歩む人々の疑いを取り除こうと、親鸞聖人の言葉を集め記されたと言われる。この前序には、その歎きがあらわれている。

前序の文の冒頭に、「親鸞聖人がおられた頃と今とを比べてみますと」とあることから、『歎異抄』は、親鸞聖人がご往生された後に記されたことが分かる。『歎異抄』は、おそらく親鸞聖人がご往生なさって10年から20年後くらいに書かれたのではないかと言われる。

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