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黒い脳髄としてのクロール・スペース

近代の誕生

(前略)ジョナサン・クレーリーは、カメラ・オブスクーラは外部世界と切り離され自立する観察者という地位を、主観に与えたと言う。いわば主観は外部から遮断された、この暗い箱の中にあって、その壁に映像として切り取られ映し出された外部世界だけをひたすら観察している。こうして外部は主観化され、私物化される。視覚の座は世界から切断され、その外に押し出される。
 つまりカメラ・オブスクーラは主観に超越的視点としての地位(妄想)を与えたとだけ、クレーリーは言っているようなものだ(後略)
岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』

 こうしたカメラ・オブスクラを通した認識は近代となって一般化する。つまり時代の無意識となったのである。
 そもそもカメラ・オブスクラの原型は古代に発明され、継承されてきた。が、カメラが発明されるのには時間を要し、近代となってようやくジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが写真を作ることに成功した。それ以後、まさにカメラは時代が要請したかのように流行する。そのことからもカメラによる認識が近代と密接に結びついていることは明白だ。
 さらに、近代哲学の祖であり、キリスト教徒であるデカルト。彼の「我思う故に我あり」とは世界全てが虚構である可能性の否定はできなくとも、ただ一つ自らの意識の存在は否定することができないことを意味する。こうした認識の下に世界を知覚する時、人間は啓蒙思想(Enlightenment)の名の下に自らを中心にして光あれと世界を開く。そこで主体とはまさにカメラ・オブスクラの焦点のように、暗闇の中で自らを中心にして一点の光が照らす。そのような認識の在り方により構築される。こうした主体とはまるでユダヤ-キリスト教における神のように、世界に対して超越的視点としての地位を得る。    

窃視と暗い部屋

 そして、一見近代的主体とは似ても似つかぬ本作の主人公カール・ガンサー。彼も実は
こうした主体の在り方に依っている。
 モデルにしたと思われるアメリカのH・H・ホームズにしろフランスのマルセル・プティオも近代に生まれた者達である。またガンサー自身はというと父はナチスの強制収容所の拷問器具の責任者である。その血筋を引くガンサー自身もまた医者となってブエノスアイレスの国立病院で患者を67人殺害。その後アメリカにてガンサーは、自ら経営するアパートに若い美女だけを泊まらせ、日々クロールスペース(屋内からはただの換気ダクトにみえる)を這って住人の部屋を周回し女を覗き見て楽しむ。
 このクロールスペースというのは暗く閉ざされた空間であり、彼はそこに穿たれた穴から住人を覗き見る。そもそもカメラ・オブスクラとは暗い部屋という意味であるが、外部世界から切り離された暗い部屋から世界を覗くことができるクロールスペースの構造はカメラ・オブスクラと酷似している。また、彼はアパートの外から中を覗き見る時には、同じように外から覗く別の男を見つけるや否や殺してしまう。このことから、彼がアパート=世界に対して超越的視点を保持している。または保持したいという欲望があることがわかる。アパートが世界の全てである彼にとってはそれ以外の現実とは虚構なのである。それを裏付けるかのように普段、対面で話す時の彼はしどろもどろで現実感が欠けている。
 彼のこうした世界の認識の在り方はまさに前述のような近代、カメラ、またキリスト教における神と一致する。
 ここでは主体と世界は見る-見られるという絶対的に非対称な窃視の関係に置かれる。もちろんこの場合、力関係も非対称であることは明らかであり、主体は世界に対して絶対的な権力を保持する。

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監視と処罰

 このような絶対的な力関係を保持する場。これは形而上学的な空想に留まらず、実際に存在する。それが監獄である。近代以降、刑罰は犯罪者に対する肉体的な罰から犯罪者を監獄に収容する形態へと変化していった。これは一般的には人権を尊重する近代的な知に依るもの。または罰するよりも監視するほうが経済的であったからとも考えられる。
 こうした監獄は経済的合理性と最大限の収容者数という点で、18世紀末から19世紀初頭にかけてパノプティコン(一望監視制度)として完成をみる。Panopticonはpan=all=すべてを、opticon=observe=見るという意味であり、英語のopticは名詞としてレンズを意味する。構造は中心に位置する看守塔に対して独房が円形に配置され、全体に均一に光が射す独房に対して、看守塔には光が射さないため、独房から看守を見ることはできない。そのため看守1人で多くの収容者を常に見られている=監視されている可能性に曝すことができ、経済的にも合理的である。さらには、ここでの看守塔はカメラ・オブスクラ。つまり暗い部屋そのものであり、看守と収容者は絶対的な見る-見られるという関係に置かれる。
 この関係性は前述の主体と世界の関係性に符合する。現にガンサー自身も見る-見られるという関係性ではないが、自室にマーサという女を監禁している。これは彼の父がナチスであることからもアウシュビッツ収容所をはじめとしたユダヤ人収容所の比喩であることは明らかである。それと同時にマーサの舌を抜くことで、ここでも話す-話しかけられるという一方的なコミュニケーションで、非対称性を作り出していることは留意しておきたい。
 またナチスに関して言えば、終盤にガンサーはヒトラーの映像を自らに投影した状態で、死を偽装する。これは疑似的にキリストの死と復活を自らに重ねているとともに、ナチスの根底にキリスト教が深く根差すことを表しているとも読める。

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監獄のヒューマニズム

 話を戻すがパノプティコンは中心点に位置する看守塔に対して対称かつ均等に独房が配置された円形の構造と円形のドーム状の屋根を持つ。これは教会堂に広く使われた集中式建築を彷彿とさせる。集中式建築は中心点または中心となる空間のまわりに従属的な空間が対称かつ均等に配置される建築であり、その多くが円形のドームを有する。多くの教会においてこの中心となる天井にはキリストのイコンが描かれ、その眼差しに人は曝される。この見る-見られるという関係性によって教会は閉鎖的な空間を生み出す。
 そうした集中式建築は中世から近代への移行期としての近世に位置するルネサンス期。そこで再度、注目されルネサンス期の人間中心主義的な側面と重なってヒューマニズム建築を生み出した。このヒューマニズム建築とは正しい比例関係による調和と完全なる幾何形態。つまり純粋幾何学への還元を規範としたものである。その典拠とされたのはローマ時代のウィトルウィウスがその人体の各部の比例関係と建築の比例関係が数学的に完全に対応しうることを示したことである。そのため建築は人体のアナロジーとして捉えられもした。ルネサンス期にはウィトルウィウスの建築についての記述をもとに、多くのヒューマニズム建築が生み出され、ダ・ヴィンチなどもウィトルウィウス的人体図やヒューマニズム建築としての集中式教会堂を作図する。こうした蓄積が近代となってコルビジェによるモデュロールなどといった人体の寸法込みの建築理論へと結実する。
 パノプティコンとはこうした建築におけるヒューマニズム(人文主義)を背景として、人道的と目される収容の形をとった生権力としてある。
 そうして、ガンサーのアパートはといえばクロールスペースといった人体の比例関係に則した場所はもちろんのこと、椅子には座った場合の人体の寸法に合わせ座面から飛び出す針や、自室にはどういった角度、高さ、長さであれば心臓を刺し貫くことができるかを正確に計算された処刑器具が置かれる。
 ガンサーのアパートはまさに近代に向けて進歩してきた建築の歴史に沿った場としてある。

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無限後退する自由意志

 さて、これまで述べてきたように窃視という見る-見られる関係性の中で、超越的視点としての地位を得た近代的主体であるガンサー。彼は窃視される者=監視される者に比して、絶対的に自由であるようにみえる。それはまさに近代的な自由意志を象徴している。
 が、しかしそれと同時に彼には奴隷意志が纏わりつく。というのは彼は1人殺すごとにロシアンルーレットを執り行い、自らの生死を運命に任せてしまうのである。まず近代の刑罰としては人間は自由意志の下に行われた行為であるからこそ罰せられるばきだと考える。近代的主体たる彼が罰を受けること自体は何もおかしくはない。が、彼はロシアンルーレットによって罰を下す者を主体から神にすり替えてしまう。何故このような甚だしい程に近代的主体とかけ離れた自罰的行為が近代的な自由意志と両立するのか。
 それは近代の見る-見られるという関係性が、それをまた俯瞰して見る者がいる可能性。つまり無限後退を容易く想定できるためである。このような入れ子状の構造が存在する可能性を近代的主体は否定することができない。そのために、彼は神のごとく自由に振る舞いつつ、それでいてさらに俯瞰して自らを見る神とでも呼ぶべき者を想定し、生死を託すかのような行動に出るのである。
 ここには近代的主体が抱える大きなパラドックスが露呈している。それは自由意志を標榜する近代そのものが奴隷意志に依って成り立っているということである。また、ヒトラーがワーグナーとともに尊敬していたルターもまたエラスムスの自由意志論に対し奴隷意志論を著していることも押さえておきたい。したがって分裂症的にみえるガンサーもまたそうした近代人の1人に過ぎないのである。

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終わりなき近代

 このようにパラドックスを内包する近代的主体とは崩壊しかねない。現に映画の終盤においてそれは崩壊する。
 まずロリーは死体の溢れる異常な住居から監禁されていたマーサとともに脱出を試みる。が、しかしガンサーの仕掛けによってアパートの入り口には鉄格子が掛かり、アパートそのものが文字通り監獄と化しているがために逃げ場が無い。そうして彼女は見られるという視線の恐怖に怯えながら監獄を逃げ回ることを余儀無くされる。あえて言えば彼女が見られていることを意識したこの時点においてガンサーの近代的主体が完成したとも言える。
 そうして彼女は逃げ回るうちにクロールスペースへと追い詰められる。これまで、ガンサーの超越的視点としての地位を象徴していた場はいまや監獄として表象される。それはこれまで彼が外部世界を監獄として認識していたこと自体が、カメラ・オブスクラのような反映として自らを見ていたに過ぎないことを意味する。つまり、自ら監獄に閉じこもる姿を見ていたのである。それは同じく終盤にヒトラーの映像をプロジェクターによって自らに投影していたことからもわかる。
 以上より彼にとって世界とは主観化され、私物化されたものに過ぎず、そこには他者が存在しない。私圏と公共圏といった違いも無く、ましてや公共性といったものは介在する余地も無い。近代の主体と世界、見る-見られるという窃視の関係性の中でしか世界を認識することができない。そのため彼の死とは、そうした認識の崩壊か世界の終わりでしかあり得ない。
 最終的には彼はロリーの手によって銃殺される。が、しかしそれもまたロシアンルーレットによることから、他者とは呼べない。そうであるならば、彼は自らの凶弾に倒れたのかもしれない。

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