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『マス・イメージ論』吉本隆明に関する雑記⑥―2つの「転換」

 『言語にとって美とはなにか』吉本隆明では、言語の表現の共通の基盤として、韻律、選択、転換、喩をあげている。吉本によると、これらは芸術的な言語表現を成り立たせているという。今回の記事で取り上げたいのは「転換」である。ウェブ上で閲覧できる「吉本隆明の183講演」の中の1967年に行われた講演「人間にとって思想とは何か」では、表現の「転換」に関して以下のように述べている。

(前略)それから今度は、転換っていうのは、ようするに、場面から場面、どの場面からどの場面に転換するかっていう、その転換の仕方によって問題が違う、あるいは、長編小説の場合、第一章と第二章をどういうふうに選んだか、つまり、第一章の次の第二章をどういうふうに選んだか、そういう転換の仕方のなかには、美っていうもの、あるいは、芸術っていうものを成り立たせている、芸術表現っていうものを成り立たせている要素がある。(後略)

ここでは、「転換」は、芸術的な表現に必要な要素や尺度のひとつであると考えられている。言い換えると、「転換」の複雑さの度合いによって、どれくらい芸術的であるかどうかが決まっている作品もある。

 一方で、『マス・イメージ論』にも「転換」という言葉が登場するが、「変成論」から以下のように引用してみよう。

スイッチとチャンネルによって一瞬に中心に到達できる映像の世界、また一瞬のうちにべつの系列の映像に転換し、また恣意的にスイッチを切って消滅させることができる映像の世界、<出現><転換><消滅>がす早くおこなわれるというイメージ様式は<意味>の比重を極端に軽くすることではじめて衝撃に耐えられる世界である。このイメージ様式を言葉の世界に移す方法が、現在の若い作家たちによって捕捉されることは、いわば必至だといっていい。ただどうしても言葉を軽くしなければ、このイメージ様式と等価な世界は成り立ちそうにない。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

「イメージ様式」は、「スイッチとチャンネルによって一瞬に中心に到達できる映像の世界、また一瞬のうちにべつの系列の映像に転換」し、「<出現><転換><消滅>がす早くおこなわれる」ものである。ここでは「転換」は「イメージ様式」を説明するための言葉のひとつとして登場する。しかしながら、『言語にとって美とは何か』で芸術的な要素や尺度となっている「転換」とは、大きく意味が異なっている。『言語にとって美とは何か』の「転換」は言葉の芸術性を高めるが、『マス・イメージ論』での早すぎる「転換」は、「<意味>の比重を極端に軽くすること」を言葉に対して要求する。言い換えると、後者の「転換」は芸術性を拒絶するとも考えられるだろう。

 これらの「転換」の違いは、『言語にとって美とは何か』と『マス・イメージ論』で取り上げられている作品で使われている言語の質の違いによると考えられる。この言語の質の違いに関して、吉本は『マス・イメージ論』の「縮合論」の中では以下のように語られている。

(前略)現在のポップ文学やエンターテイメントの世界が、その量的なスペクトラムのそれぞれの層の様式を縮合させることで達成している質の高度さが、決して偶然ではないとおもわれてくる。ただそこでは言葉が概念の伝統的な様式、おもに書き言葉を集積することで得られた様式とまったく別様に使われている。(中略)文体的にいえばそこで使われている話体は、無意識の層の表出にあたる話体で、日常のコミュニケーションの必要からでた話対ではない。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

『言語にとって美とは何か』で取り上げられている作品は、主に文学、詩、短歌であるが、『マス・イメージ論』で取り上げられている作品は、文学だけでなく当時の「ポップ文学」、「エンターテイメント」も含まれている。上記に引用した部分では、両者で使われている言語が異なっていることが述べられている。この取り上げられている作品とその言語の質の違いが、「転換」の意味の違いになっていると思われる。

(追記1)本記事は以下の記事のシリーズの続きになるので、もし関心が過去の記事に関心のある方は読んで欲しい。


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