奇妙な共存?―黒岩涙香の「理想団」と小川平吉

 昨年ミネルヴァ日本評伝選の1冊として出版された『黒岩涙香―断じて利の為には非ざるなり』奥武則を先日読了したので、興味を持った点を取り上げてみる。

 黒岩涙香は1901年に社会の改良を目指した「理想団」(注1)という団体をつくった。上記の本によると、理想団の発起人は下記の通りであったという。

黒岩涙香
内村鑑三
幸徳秋水
堺利彦
山縣五十雄
円城寺清
天城安政
斯波貞吉

 全員が黒岩涙香の新聞『萬朝報』の社員であり、彼らを中核としていた団体であることが分かる。さらに1901年12月に理想団本部の評議員が上述の8名に加えて下記の8名が選出された。

安部磯雄
佐治実然
花井卓蔵
朝倉外茂鉄
塩谷恒太郎
高橋秀臣
山県悌三郎
小川平吉

 ここで注目したいのは最後に挙げた小川平吉だ。小川がこのメンバーにいることは現代の私たちからすると違和感がある。小川は1925~1935年に発行された『日本新聞』の主宰で、国家主義を主張していた。昨年のNHKスペシャルで特集されていたため、記憶されている方もいると思う。(注2)この新聞は東条英機、平沼騏一郎、近衛文麿ら大物政治家、軍人が会員であり、30年代の国家主義的な言説を形成するのに貢献したようだ。
 現代の私たちからすると理想団の中核メンバーの何人かとは思想的に対極的にあるようにみえる小川平吉が理想団に参加することになった経緯は不明だが、花井卓蔵、朝倉外茂鉄、塩谷恒太郎、小川平吉は江湖倶楽部(注3)という団体のメンバーであるという共通点があったようだ。(注4)江湖倶楽部と理想団は何かしら共鳴するものがあったのだろうか。

 戦前の歴史を調べたり勉強したりしていると、現代の私たちがみると「水と油」で交わることのないような人物や思想が同じ団体の中で共存している事例によく出会う。理想団における小川平吉と他の評議員の共存はこの一例と言えるであろうか。現代では交わることのないと思われているものに交流があるということが、戦前の歴史を勉強する上でおもしろい点のひとつであると思う。

(注1)黒岩涙香の理想団に関しては、ウェブで読める下記の論文が詳しい。

「理想団の研究-1-」有山輝雄 『桃山学院大学社会学論集』 13(1)
リンク先:https://ci.nii.ac.jp/naid/110004701317

(注2)『かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~』という特番。下記リンクを参照。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190812

(注3)江湖倶楽部は弁護士や学者で構成されていた団体であったようだが、ウェブ上で調べてみてもほとんど情報が出て来なかったため、引き続き調べてみたい。
(注4)「理想団の研究-1-」有山輝雄 『桃山学院大学社会学論集』 13(1)

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