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『マス・イメージ論』吉本隆明に関する雑記②―文学のあるべき姿とは?

 最近、吉本隆明の『マス・イメージ論』を読み進めているが、読んだ後で印象が変わった部分があるのでそのことに関して記事にしていきたい。

 『マス・イメージ論』の中の1章である「停滞論」は反核運動に参加した文学関係者を批判したものであるが、実際に読むまでは参加した人々がアメリカには反対する一方で、ソ連に対して何も言わないことを吉本が批判しているという程度にしかこの文章を認識していなかった。しかしながら、実際に読んでみて吉本のこの批判の背景にはもっと多様な問題関心があることが分かった。私が読んだ限りでは、以下の問題関心が吉本の批判の中に感じられた。

①空虚の意味に耐えらず倫理的な主張に逃げ込んだ文学への批判
②現代の「大衆」の問題に向き合わない文学者への批判
③文学のパターン化への批判

 他にも読み取れる問題意識があるかもしれないが、上記の問題意識を1つずつ見ていこう。①に関しては、前章の「変成論」で下記のような文章があったので、その問題意識の延長であろう。

(前略)<出現><転換><消滅>がす早くおこなわれるというイメージ様式は<意味>の比重を極端に軽くすることではじめて衝撃に耐えらえる世界である。(中略)どうしても言葉を軽くしなければ、このイメージ様式と等価な世界は成り立ちそうにない。(後略)

吉本は当時をイメージの領域が日常世界に入り込み無視できなくなっていたと理解していたことが分かる文章が同時期に行われた講演「日本資本主義のすがた」にみられる。

(前略)マスコミュニケーションが付加しているイメージっていうものは、寡占的な大企業が付加している、価格競争でない競争のイメージ、それで、それにコントロールされたマスコミュニケーション自体のあり方を示す大きな要因で、そのあり方のところを基本的に奥底のほうで、無意識の奥底のところで規定しているのは、やはり現在の資本主義のメカニズムが規定しているってこと、直接規定しているなんていうと、悪い言い方なので、あまりそういう言い方をしちゃいけないと思います。ぼくはそういう言い方で言っているのではないってことをよくあれしてください。ぼくは、非常に社会的に無意識まで沈んだそういうところで規定していると言っているのであって、これがすぐに規定しているなんて、ぼくはちっとも言っていないですから、そういう人と一緒にされるとぼくは困っちゃうわけで言いますけど、そういう言い方をしているのでは決してないのです。だけれども、そのことが基本的に規定しているってことは非常に重要なことだと思います。(後略)

 ②に関しては、少し『マス・イメージ論』の連載時期とは離れているが、吉本の立場を明確にあらわしている文章を1987年の講演「究極の左翼性とは何か」から引用してみよう。

(前略)はっきりさせておきたいのは、国家と資本が対立した場面では、資本につくっていうのがいいんです。国鉄が民営化分割されるっていうんだったら、原則としてはそのほうが正しいんです。次に、資本と組織労働者とが対立するときには、労働者につかなければいけないわけです。その先に、もうひとつあります。組織労働者と一般大衆のあいだに利害の激しい対立が生じた場面では、一般大衆につくのが、左翼思想の究極の姿なんです。(後略)

 ③に関しては、『思想の流儀と原則』という鶴見俊輔・吉本隆明の対談で、吉本は文学をパターンを破壊するものであると捉えていた。また、1981年に行われた講演「物語の現象論」でも以下のように述べられている。

(前略)だから、その世界でもっとそれを実現すればいいので、もしもしかし、文学にとって本質的な衝動というものが、そうじゃないのであって、現に存在する膨大なイメージの世界、あるいは、イメージ生活の層といいますか、厚みといいますか、それをとにかく、くぐり抜けて、なおかつ、やっぱりひとつの個性ある作品としての自己主張をしたいということが、文学にとって本質的な問題だったとしたらば、どうしてもここをくぐり抜けて、なおかつ個性的でありうる、つまり、良識的に現実性をもちうるというような、そういう世界をどうしても実現する必要があると思われるのです。(後略)

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