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限界芸術を日常にとどめるという難題ー『限界芸術論』鶴見俊輔のメモ②

 現在、鶴見俊輔の『限界芸術論』とその関係論文を再読しているが、再読していて気が付いたことがある。以下の記事でも紹介したように、鶴見は美的経験について以下のように述べている。

美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。(中略)美的経験が日常経験一般と区別される特徴として、それじしんとしての「完結性」だけでなく日常生活からの「脱出性」をもつというふうに言いあらわせる。美的経験は、人間の経験一般の凝集であるとともに、経験一般からの離脱反逆でもあるわけだ。(後略)(『限界芸術論』(ちくま学芸文庫、1999年)の「芸術の発展」より)

美的経験を高まってゆき、まとまりをもち、日常経験とは異なり「完結性」、日常生活からの「脱出性」を持つということを鶴見は指摘している。言い換えると、美的経験は日常生活から離れていくことを言いより高度な価値を目指して上昇していく性質があるとも言えるだろう。ここでの「高まってゆき」ということは、限界芸術がより高度な―より専門的な評価基準、評価者によって価値づけが行われるような―純粋芸術、大衆芸術になる可能性があるということであると考えられる。鶴見は限界芸術を純粋芸術、大衆芸術が成立するはるか以前からあり、両者の基礎になっていることを述べているので、限界芸術が上昇していくと純粋芸術、大衆芸術になっていくのではないかと考えていたと思われる。

 『限界芸術論』を読むと、限界芸術(以下、限界芸術的な活動とも記載)は日常生活に接しているがゆえに様々な人々に参加する機会があり、評価する側/評価される側、創作者/観賞者という前提とされている区分を取り払うという点を特徴のひとつとして持つことが分かるが、限界芸術が上昇すると、純粋芸術、大衆芸術になり、創作者/鑑賞者という区分が成立してしまう。良し悪しはおいておいて、創作者/鑑賞者の共同体が成立して創作者側に参加することが非常に難しくなるだろう。鶴見は、このような点を批判して限界芸術という枠組みを考えた。鶴見の主張した限界芸術は日常生活に接しているところで成立するものであるが、日常生活から離れたところでは限界芸術の強みは成り立たないであろう。

 私は限界芸術的な活動を日常的に実践していくにあたって、この点はとても難しい問題であると考えている。言い換えると、上昇していく性質を持つ美的経験を抑え込みいかに日常生活にとどまらせるかという問題である。特に限界芸術的な活動を続けていくうえで重要な点であろう。長く継続すればそれだけ美的経験の上昇していくという性質が発揮されやすく、より専門的な評価も得やすくなる。このような美的経験のはしごからどのよう外れることはできるのだろうか。

 この限界芸術的な活動の難題は、以下の記事で紹介したような鶴見の日常の思想が共通して持っているものである。日常に安定/不安定の二重の要素を求めていた鶴見にとって限界芸術(限界芸術的な活動)は後者の要素である。限界芸術的な活動をそのまま継続して日常生活の中に保ち続けることが重要であると鶴見は考えていたように私は思われるが、それをそのように実践していくかということは私たちの課題であると言えるだろう。


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