アンチラベリング

私(個人)とは何者なのか、を日々考えている人間はどれだけいるのだろうか。

たとえば、それに対して職業や家での役職で答えるのはナンセンスなものである。

もし、どこどこ企業の会社員が何者なのか?の回答であったとき、その人は会社員を辞めたら何になってしまうのか。

もし、家族の大黒柱お父さんですよ。と回答してしまったなら、子供が巣立ったら、家族と死別したら、その人は一体何になってしまうのだろうか。

確かにお金を稼ぐことや生活とその人の人生は地続きかもしれないが、その生活においての役割に名前をつけて、それが自身ですよ。と定義するのは危険である。なぜなら、その考え方は二元論的であり『そうである』と『そうでない』しか無いからである。(休職中というのはそういう意味ではその仕組みから逸脱しており面白いが、ややこしいのでここでは一旦おいておく)

人間は自分が救いたい弱者には優しいが、救いたくない弱者には時に残酷なまで冷たくすることができる。

そしてその強者、弱者の基準となるのがラベリングである。とにかく全てをカテゴライズする。

たとえば、正社員はアルバイトよりも強いとなんとなく人は感じている。それは仕事の出来不出来ではない。結局はどれだけ稼いでいるかである。

しかし、そのアルバイトが空いている時間に描いていたイラストで爆発的に人気になると、アルバイトは途端にアルバイトから売れっ子イラストレーターにカテゴライズされ、正社員の年収がひと月の給料となる。

売れっ子イラストレーターは正社員よりも強いと、なんとなく感じられる。

さて、このときアルバイトと言われていた人間と売れっ子イラストレーターと言われている人間は同一人物なわけだが、本人がやっていたことは何か変化しただろうか。

否、変わったのは周囲や評価といった他者であり、本人ではない。

それをどういうわけか嬉々として私(個人)と名乗ってしまうわけである。

言葉はラベリングするには有効だが、そんなのはラベリングするに値する言葉に当てはまる自身を持っている人間に限りであるし、そうでなくとも言葉ひとつに込められた偏見や悪意のある誰かが付けた下世話な意味合いを考えるとデメリットも大きい。

私は、その秩序から外れたい。秩序、秩序。今思えば私はずっと秩序から外れることだけを考えて生きていた。上にも下にもいたくない。外がいい。

何者でもない私を追求し続けたら今の形に収まった。私はやっぱり、上手く自己紹介をすることができない。

もちろん誰かに簡単な言葉で紹介されるのも不快だ。簡単な言葉ひとつで、凄いとか、しょうもないとか思われることが不快だからだ。

数字も違う。数字は現実だけれども、数字を見て考えるのは自分だけでいい。誰かに数字は見せびらかすものではないし、数字に吸い寄せられる数字信者は、結局私ではなく数字を見ているだけだ。数字がまた秩序を作る。

何者でもあり、何者でもない人が、きっと秩序を破壊すると信じて私は今日も生きる。


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