己の正義に死ぬ人達

こんばんは。私は今日も相変わらず、変化していく季節の中に留まったまま、自分が何と向き合うべきなのかを考えています。

何故、私は一つの場所に馴染んで、居場所が出来た瞬間にその場所から消えたくなってしまうのだろう。

確立した正義が無いままでいられる強さについて。

長いものには巻かれろ。というのは諺にある通り、たぶんでかい流れに乗るのが上手に生きるコツみたいなものなのだろうと思う。

しかし、自分の周りを見て長いものに巻かれて生きている人間が私にはどうしても幸福に見えなかった。彼らは皆何かを押し殺すように生きている。そして、誰も理解し得ないタイミングでその抑圧を暴発させる。

勿論、殴られる対象は彼らにとっての“長いもの”ではない。どちらかというと長いものに巻かれるのを拒否したもの、長いものに巻かれることができなかったもの、もしくは彼らにとってではない長いものである。

誰かが作ったものに流されて生きることを選んだ彼らは、その選択によって耐え難いストレスを受ける。

そして、その選択を選ばなかったもの、選べなかったものを目の敵にする。少し話はズレてくるが、生活保護を受ける人間が堂々としていると後ろ指を刺される感覚に似ている。

時計じかけのオレンジに登場するアレックスは、矯正前と矯正後どちらがより魅力的なのだろうか。無害なのは矯正後であるのは明白だが、矯正後の彼に生きている意味はあるのだろうか。これはトロッコ問題にも繋がってくる。一人の人生が犠牲になるか、不特定多数が犠牲になるか。

アレックスも生活保護も、長いものに巻かれる大衆がいないと生きていけない。ならばトロッコで轢き殺されるのは必然的に決まってくるという訳だ。

私達は皆、弱い。私達というのは私のようなならず者、逸れもののことをを言うのではない。人間社会に生きる全ての人間のことである。勿論、強さの加減は人それぞれだけれども、それでも弱いもんは弱い。弱いから、自分を正当化したくて堪らない。

最近その手の人間とばかり話している気がする。自分を正当化する為に自分と違うものを徹底的にこき下ろし、支配しようとする。

そもそも焚き付けたのは私であるような気もするのだが、私は大きな流れにただ身を任せているだけで偉そうな奴が何となく苦手だ。なので、どんなもんや。とお手並み拝見するのであるが、もうまじで怖え。その自分よりも弱者だと思った瞬間に勝ち誇った顔をしてまくし立てる、その感じが。

長いものに巻かれる代償は、自分の正義が万人にとっても絶対であるとごく自然に勘違いすることなのではないかと実感する。嗚呼、社会!ここで量産されていくのか、多角的な視点を失った人間が……

そして私は老害と呼ばれる老人たちがどこで発生するのかも悟った。定年退職だ。老害は会社という小さな社会が作った正義に何十年も漬けられていた人間が、その社会から放り出された成れの果てである。彼らの中に何年もかけて当たり前に浸透した正義は、万人には通じない。

ああ、これこそが私が一つの場所に留まりたくない理由である。多角的な視点を失えば私は終わる。荒廃した定時制高校にまともに3年間通ったことによってだいぶ私の価値観は逸れものの側に偏ってしまったけれど、それでも長いものに巻かれるくらいなら死んだほうがマシだった。

多くの人間から理解はされないだろう。ただ、これだけは。自身の選択が正しいのか間違っているかを決めるのは、友達の多さでも、金銭の豊かさでもない。勿論、今まで交際した人数の多さでもないし、配偶者の有無でもない。

そもそも、人から見えるところに正解は無い。というか正解なんてない。

例えば、私の言葉が響く人間もいれば、響かない、なんなら目障りに思う人間もいる。

私の言葉は、自問自答する中で、私自身に投げかけられる言葉だから、たぶん優しくない。でも、もし誰かひとりでも、私の拙い言葉でも、求める人に届いたらうれしいな、なんて思う。

まだ、腐るには早い。







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