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「偏差値洗脳システム」に無自覚のうちにはめられていた自分を自覚して

皆さんには学歴コンプレックスはありますでしょうか? ここで言う学歴コンプレックスとは、自分が得てきた学歴が他者に比べて十分でないと認識していることによる、様々なネガティブな感情や考え方のことを指します。

ある、という人もいれば、ない、という人もいることでしょう。ちなみに、私はあります。この記事の後半部で、その実態を探り、自らにかけられた洗脳(あるいは自分で自分にかけてしまった洗脳)を明らかにしてきたプロセスについて述べますが、その前に、「学歴コンプレックスの在り方は多様で、人それぞれでまったく異なる。それゆえに、この社会において極めて大きな問題を与えている」という旨について、一緒に考えていきましょう。

■どんなに才能を発揮していても、心の片隅に巣くっている

私の知り合いに、ロックミュージシャン&占術師という多彩な方がいます。その人はとにかく学校が合わず、義務教育課程である中学も途中で通わなくなり、高校に入学せず若くして音楽などで身を立ててきたそうです。その点、この人は自分の能力特性を若くして自覚しており、かつ、学校教育などでは図れない能力を備えていたと言えるでしょう。これは素晴らしいことです。

ただ、大人になってから、事務手続きや金融サービスの審査などで高校を卒業していないことの不利さを実感したそうです。そこで、高校卒業資格を取ろうと決意。勉強して大検(現在の高校卒業認定)を取得しました。そして大検を取得した後に、「自分には学歴コンプレックスがあったのだ」と、あらためて自覚したそうです。

しかし、このミュージシャン&占術師の方は、家計についても全く問題なく、むしろその辺の高級サラリーマンよりもずっと自由で幸せそうな雰囲気です。文章を読んでいても楽しく、撮影していた写真が評価されて個展を開いたこともあるそうです。「面白いことが相次いでいて、忙しくて仕方がない」としばしばおっしゃっており、まさに豊かな人生を送っています。

総じて言えるのは、学歴コンプレックスとは相対的かつ曖昧なものであり、実態のない概念なのだな、ということではないでしょうか? 

ただ、そうした曖昧さゆえに、ときに無際限に人を苦しめ、生きにくくさせるおそれのある、やっかいな概念でもあります。

繰り返しますが、学歴コンプレックスは「自分の学歴は他者よりも優れていない」という認識から、根拠や実証などがないまま、「自分は劣っている」「自分の存在感はない」「自分はできない」などの不安感や自信の喪失感を得たり、自分よりも優れた学歴を持っている人物などに対して恐怖や嫉妬などのネガティブな感情を抱いたりします。そしてそれゆえに、他者に対して攻撃的になったり、物事に対して諦めた感覚を持ったり、といった非生産的な思考・行動が増えます。

私は、「この影響は、世間で取り沙汰される以上に大きく、我々の社会全体に大きな損失を与えているではないか」と見ています。というのは、この学歴コンプレックスが、人の動機や行動をさらに複雑にし、QOL(生活の質)を大きく低下させている可能性があると考えているためです。

■「学歴コンプレックスをバネに」がはらむ危険性

例えば、しばしば聞かれるケースである「学歴コンプレックスをバネに仕事を頑張って高い成績を上げた」という事象を少し、掘り下げてみましょう。このような行動をむしろ好ましい、と捉える向きがあるかと思います。

しかしここで、もう少しきちんと考えてみましょう。その仕事がそもそも本人にとって心からやりたいことではなかったとしたら、どうでしょうか。さらに言えば、この人物に影響力を及ぼせる人物に焚きつけられてその仕事をしていたとしたら、どうでしょうか。

つまり、一歩引いてみれば、学歴コンプレックスというネガティブな事象によって、本人にとってさらに本意ではない方向へと突き動かされていた、とも見なせそうです。別の言い方をすれば、本当の自分たる「魂」のレベルから見れば、学歴コンプレックスという心理的事象を他者に利用され、自分らしい動機がさらにかき消されていた可能性があると解釈できます。

だとしたら、ただでさえ学歴重視の社会風潮が生きにくさを阻害しているにも変わらず、この学歴コンプレックスの影響によって、さらに個々人が自分らしくない状態へと追い込まれていることになります。これは、苦しいことこのうえない在り方です。

■「学歴コンプレックスは自分には存在しない」と思い込んでしまっていることの悪影響

さて、ここで、「本当に怖い学歴コンプレックスの在り方」を提示したいと思います。それは、「学歴コンプレックスがあるにもかかわらず、『それは自分には存在していない、あるいは克服している・昇華させているはずだ』と思い込んでしまい、蓋をして真の認識を押し殺すことで、いまだに人生に影響を与え続けている学歴コンプレックスの問題を自覚できていない状態」です。実際に影響を受けている実態を、自分自身でさらにだましているような状態です。

そしてこれは、50代にもさしかからんとしている私自身のまったく正直な「真の姿」です。このような私の複雑骨折のような意識状態は、私の父親によるハラスメントと、その背後にいる母親のハラスメントというダブルのハラスメントにより引き起こされていたと見ています。

私の父親はいわゆる「いい大学」を卒業しているのですが、私は学歴などという概念を気にすることもない幼少期の頃から、父親が明に暗にと自分の学歴を家族に自慢する姿に対して、大変なる違和感を抱いていました。

今から思えば、父親は子どもである私に対して、マウンティング(威嚇)していたのではないかと思います。中学生が下級生に対して行ういじめのようなもので、まったく大人げのない行動です。

私自身は、テスト勉強も学歴という権威も好きではなかったのですが、そうはいっても日本社会はこの学校偏差値システムを通じて、子ども・若者たちの劣等感と優越感を煽り続けています。2020年代の今は多少なりとも薄れてきましたが、1980年代・1990年代の昔はその傾向がもっと強く、当然、私の両親も学歴大好き人間でした。そんな周囲の環境下におかれて、私自身も心理的に巻き込まれ、見事に学歴システムに精神を浸食されてしまいました。

少し別の角度の話になりますが、私の父親と母親は、かなりのハラスメント体質であったようです。より具体的に言えば、彼らは、自らの潜在意識下に、劣等感と存在不安(自分という存在はありのまま・そのままでいてはいけないという強い不安感・焦燥感のこと)を強く抱えていました。こうした人物は、自分よりも弱い人・操作しやすい人を見つけると、半自動的にハラスメント行為を実行します。これにより一種の快感を得ることによって、自らの内側に住まうネガティブな感覚を直視しないように済ませているわけです。

ハラスメント行為の対象は、実の子どもであってもお構いなしです。いやむしろ、子どもはコントロール下に置きやすいため、格好のターゲットとなります。

ネットでは「毒親」という言葉が流通しています。まさに毒親は、自らの存在不安と劣等感を抑えることがままならず、無意識のうちに子どもにハラスメントを実行しています。

なお、私の家庭の場合、特に母親のほうにかなりの精神的な問題があったようで、幼少期の私に、性的なニュアンスを含むハラスメントを仕掛けていたようです。詳細は私の過去のnote記事に譲りますが(母親に「ペット」と呼ばれ続けた人生は、どうなるか?)、こうした性的なハラスメントは、子どもの自尊心に大きなダメージを与えるとされています。

私は長い間、自分の意識内に「常に自分を責めるもう一つの声」が存在しており、これの統御に大変な労力を費やしていました。ですが、つい数年前、私は「母親からされてきた『嫌な感じの関わり』が性的なハラスメントに類するものだった」と明確に理解できた瞬間、この「もう一つの声」が、ぱったりと止みました。これには本当に驚きました。

■自分は意識下で「微妙な“奴隷”でいようとする思考・行動パターン」を持っていた

さて、こうした極めてネガティブな家庭環境と歴史的な経緯の中、私の意識内には、次のような「不要なアファメーション(宣言)」が強く埋め込まれてしまったようでした。

「私は、父親(および同種のプロファイルを持っている人々)よりも「下」である」→私は「私の学歴は父親よりもランク下であるため、人生のいろいろな面で『自分は父親よりも下である』と認めざるを得ない」という認識を持っていたようです。

「私は、父親(および同種のプロファイルを持っている人々)のような『できる人』には、能力が及ばない」→これも先に挙げた項目に似ていますが、少しニュアンスが異なります。「学歴ランクが父親よりも下である私」が「父親および父親に似たプロファイルを抱えたハラッサーを刺激してハラスメントを受けないようにしたい」という認識から、私は意識下でこのような決めつけをし、さらにはその決めつけを見ないようにするため(=父親のひどさに直面しないようにするため)、自分を二重にだますかのように「諦める」という決意をしていたようです。

「私は、父親(および同種のプロファイルを持っている人々)よりも「下」でいなくてはならない」→私の父親は先にも触れたようにハラスメント体質でした。劣等感が強い人物は自分の立場や能力を脅かす、あるいは近い将来脅かしそうな人間を極度に恐れるため、ハラスメントを仕掛けます。幼少期の私は、父親からハラスメントを受けないようにするため――つまり父親を刺激しないようするために、「とにかく父親よりも下の位置にいるよう自分を制限することが合理的である」という認識を持っていたようです。

「私は、父親(および同種のプロファイルを持っている人々)の言うことに従わなくてはならない」→上記にも似ていますが、とにかく私の能力は父親よりも下であり、かつハラスメントを受けず自分を安全に保つために、従うようにしよう(あるいはそうせざるを得ない)と決め込んでいたようです。

そして私は、このような「不要なアファメーション」を通じて、なんとも言えない不思議に縮こまった位置・立場に収まっていなければいけないし、むしろ能動的にそこに収まろうとする、不思議な思考・行動パターンを繰り返していたことにも気がつきました。

――別の言い方にすれば、「微妙なレベル感と絶妙な範囲内で活動する奴隷でいようとする思考・行動パターン」です。

そしてこのような「微妙な奴隷」としての思考・行動パターンは、次のような自分を形づくっていました。

・なんとも言えない生きづらさと、説明しがたい「自由ではない感覚」
・仕事に対して過剰に身を投じるものの、不安感を常に抱えており「守り」の姿勢になりがちな傾向
・向上心はあるものの、必ず途中で息切れしてやめてしまう傾向
・説明しがたい「発展しない感覚」を常に味わっており、併走感を感じながらも、そこからカベを打ち破る発想ができずにいる状態に、むしろ自分から進んで甘んじていること
など……。

これこそが、私が歩んできた「学歴コンプレックス人生」の全体像です。もちろん、これら私の特質すべてが学歴コンプレックスという原因に集約されるとは言えません。ですが、かなりの部分、父母のハラスメントと学歴コンプレックスの影響が混在して、このような性質が形成されたことはほぼ間違いないというのが、必死になって自分自身を掘り下げて得られた、今のところの結論です。

話は飛んで、私は1年ほど前に、たまたまある記事を見つけ、その内容に本当に驚きました。その記事とは、経営コンサルタントおよび教育事業家として著名な大前研一氏が記したものです。

詳しくはWebメディアのプレジデント・オンラインおよび同氏の公式ブログをご覧いただきたいのですが、要約すると、日本に普及しているいわゆる学校偏差値システムは、故・中曽根康弘元首相が「若者を政府に逆らわないようにするために」導入した、一種の洗脳システムだということです。

大前氏は、これを首相のアドバイザーを務めていた頃に、中曽根氏本人から直接聞いたそうです。大前氏はこのシステムがはらんでいる本質的なまずさを直観したのでしょう。同氏の息子2人を学歴システムに駆り立てることはありませんでした。2人とも大学には行かず、興味のあることで起業し順調に事業を進めているのだ言います。正解でしょう。

翻って、日本の学校偏差値システムは、全国の高等教育機関を無個性化し、トップ大学を頂点とした数値的な序列のなかに整列させ、出題者側が求める模範解答を徹底的に覚えて高速にマッチングさせる能力に長けた子どもを「優秀な子」と定義して選抜し、名誉を与えるシステムです。ところで、A大学の農学部と、B大学の経営学部と、C大学の文学部と、D大学の工学部を比べることなどできるでしょうか? 偏差値システムは極端な話、これら異なる教育機関を横並びにして一律評価しランク付けするわけですから、冷静に考えますと極めておかしな話です。

さらには、偏差値システムがもつ相対評価の問題も見逃せません。偏差値で順列をつける仕組みにおいては、必ず、「上」と「下」が生まれます。学校や受験のシステムにおいては、「上の子」には優越感を与え、「下の子」には劣等感を与えます。これにより徹底的に子どもたちを序列化して繰り返し教化することで、優越感と劣等感による精神コントロールを可能にしています。「優越感を感じたければこうしろ、劣等感を感じたくなければこうしろ」という脅しと罰とご褒美による調教が、容易に可能になるわけです。

この仕組みによる精神的コントロールは、かつて子どもだった大人から、今の子どもに至るまで、ものすごい調教力が及んでいます。このシステムを仕掛けた故・中曽根氏は、人の本質をよく知っていたのだなと思います。まさに洗脳に成功しています。彼が死んだ後も効力を発揮しています。

こうやって子ども・若者たちに劣等感と優越感を与え続けたうえで、さらなるとどめとなる悪影響が、受験システムには存在します。それは、「上」が与えた設問と答えのセットを徹底的に覚え込ませることで、創造的かつ本質的な発想・発見を促す抽象思考力が発揮される可能性を削く、というものです。

抽象思考力の発揮には、「リラックスした適度な緊張感」が必要です。ところが学校とテスト勉強と偏差値評価システムを見てみると、「失敗したら劣等感を徹底的に与えられる、緊張感のある試験空間という環境において、いかに素早く模範解答を出させるか」に特化したものになっていることがわかります。こんな環境下で、創造的かつ本質的な発想・発見ができるでしょうか?

一方、私が観察していますと、自由な発想をし、かつ繊細で鋭い感性を持っている人物は、偏差値システムを本質的に嫌っており、ゆえにそれに順応しにくい傾向があるようです(当たり前です)。そのためそうした人々は「学歴に見栄えがしない」などとネガティブ評価がなされるかもしれませんが、このように見えてしまうという感覚こそが、故・中曽根首相が支配システムを通じて我々に仕掛けた罠です。

ではなぜ、抽象思考力を削ぐシステムに、おしなべてすべての大学入学試験を統合させているのでしょうか? それがまさに故・中曽根首相が意図したところでしょう。創造的かつ本質的な発想・発見をする人物は、支配者にとって邪魔であることこの上ないからです。異能な人々を早々に「落ちこぼれ」と定義して受験システムの外側へと追い出すことにより、支配者による体制をますます確固たるものにしているわけです。

これに対して、「上」が準備した設問と模範解答のセットを覚えて正確かつ高速にアウトプットするよう徹底的に誘導された子どもには、「おまえは頭がいい、優秀だ、努力したからこその特権的な地位の獲得者にふさわしい」という優越感が与えられ、それで精神的快楽が得られるよう脳がセッティングされます。これにより、彼らには支配者にますます操作されやすい脳内システムが構築されます。その結果、優秀とされる上位成績者はますます、支配者が出した設問と模範解答のセットをひたすらインプットし続けます。脳内の行動-快楽パターンが「上」の人間に握られてしまっているため、その枠組みを疑う余地はもはや存在していません。

このようにして、国家システムのトップを占める人々は、優越感をひたすら高めるべく、従来型のシステムを強めるように行動し続けます。そして脳内の快楽物質をさらに得るべく、既存の支配システムをますます強固にしていきます。まるで、ちょっと皮肉なSF小説のような構図ではないでしょうか。

やや脇道にそれる議論になりますが、私はこの偏差値洗脳システムは、政策決定のいろいろなところにひずみを生んでいるように思います。インボイス制度を機にさかんに指摘されるようになった消費税の問題(実は預かり金でも何でもなく第二法人税として扱われている)、そしてその背後にある「財務省支配」の問題(政治家でさえもコントロールしており民主主義の政策運用ではなくなっている)は、故・中曽根首相が仕掛けた偏差値洗脳システムが横たわっているのではないかと私は見ています。財務省の人はほとんど東大出身者で占められていると言われています。受験勉強で勝ち残った「エリート」が、政治家も含め「自分よりも劣った人間」を支配するために、もはや日本の現状に沿わない経済政策を実行している状況は、まさに現代日本社会に植え込まれた「偏差値で人間の上下を決めるシステム」の象徴ではないでしょうか。

先に、「私の父親は私の小さい頃から不思議な学歴自慢をする人物だった」という旨を記しました。私は「幼少期の頃に父親が嫌な雰囲気をたたえていたこと」をよく覚えているのですが、「子どもというのは純粋であるゆえに、本質を見抜いているのだ」ということに、今さらながら深く感じ入っています。

■現代に生きる人々に共通する問題の象徴

先に、私の両親は、子どもである私に対して様々なハラスメント行為を繰り返してきたということに触れました。それにより、私は「脳内で強く自分を批判するような思考パターン」を形成してしまいました。さらには、「もし「下」に行ったら、おまえは名誉を失う(実際には親のプライドの問題)のでダメだ。でも「上」に行くと劣等感が刺激されてしまうので、おまえのパフォーマンスの出し過ぎは許さない」という不思議なバインド(拘束)を施されていました。

「子どもには良い成績を収めてほしい(親自身の名誉のため)」「でも成績を出し過ぎると(親自信の劣等感が刺激されるので)許されない」。こんな論理性のない、わかりにくい、不思議な指示にあふれた親の下で育った少年はどうでしょうか? ハラッサーの下に居続けると、統合失調症に罹患しやすくなるとされています。私は40代後半まで統合失調症的な状態に悩まされていましたが、ハラスメント体質かつ学歴大好き人間である親がつくった家庭環境を振り返れば、当然であろうと思います。

一方で、私の幼少期を覆ってきた家族と社会の構造的な問題がわかった今、私は日々、次のように自分に問いかけています。

「私には何も問題がなかった。幼少期、親からいろいろ言われたかもしれないが、彼らはハラッサーなので、言うことをまともに聞いてはいけない」
「私は、何一つ欠けているところなどない、人生を自分の選択で進められる、力強くて素晴らしい存在だ」
「大前研一氏が指摘するように、普及している学校偏差値システムは、政治家が意図的に仕組んだ、国民を無理やり従わせるための巧みな洗脳システムなのだ」
「最初から洗脳を意図して作られた学校偏差値システムや現在の教育システムに巻き込まれる必要などない。自分は、それとはまったく関係のない生き方をしていいのだ。人に必要なのは、学校の尺度がつくった点数などではない。人と社会に貢献するための知性であり、人としての成熟度なのだ」

私は、こちらのnote記事で書いてきたような事実が明らかになるにつれ、あきらかに自分の内面が変容してきたのを自覚しています。体が軽くなる、聴覚が鋭くなる、目の前の景色が明るくなる、理由なく心のどこかで感じがちな絶望感や憂鬱感が薄まっていく、その結果として他者に優しくなれる、トラブルにも余裕を持って取り組めるようになるなど、非常にわかりやすい内的変化を経験してきました。

おそらく、私という姿に見られる生きづらさは、程度の差はあれども、現代に生きる人々に共通する問題の象徴ではないかと思っています。

■本当に人と社会を幸せにする能力とは?――「知力というより成熟度」という仮説

ところで、人が本当に他者と社会を幸せにする能力とは何なのでしょうか?かなり大きい概念なので一言では言えないことですが、私が直感的に思いついたのは、先にも触れましたが「知力というより成熟度」というフレーズでした。

知力はあるに超したことはないでしょう。ただ、故・中曽根首相が企てた偏差値洗脳システムのような、悪意のこもった尺度として知力が適用された場合、その鋭い刃物が人々を分断させ、対立させる凶器にもなり得ます。他方、「人としてどれだけ成熟しているのか」という知力を包含した広い概念――ここでは成熟度としましたが――を尺度とすることで、この社会は良くなっていくのではないかと考えました。

今後、このnoteにおいて、この「知力というより成熟度」についても、いろいろな角度から考えてみたいと思っています。

私の経験と私論に、ご参考になるところがありましたら幸いです。

そして、どうしようもない苦しみに襲われている方々には、私が自己探求を進める中で出会った様々なツールがお役に立つのではないかと思っています。ぜひ、セッション、あるいは瞑想会や体験会に、ぜひおいでください。可能な範囲でお手伝いを差し上げます。

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