スポーツとはいったい何なのか?社会にとってどういいのか?それはなぜか?
スポーツビジネス、
スポーツマネジメント、
スポーツマーケティング…
大学のスポーツ系の学科には
このような科目が並んでいる。
英国で「スポーツビジネス」を学んだ身
として実感しているのは、
「スポーツは特別」
という独特な日本的感覚。
いつも期待されるのは
「その特別な何か」であるが、
私が語れるのはごく一般的なビジネスの話
なので拍子抜けされることが多い。
ちなみに正確に言うと、
私が英国で学んだのはMBAであり、
フットボール産業
に焦点を絞ったプログラム。
スポーツビジネスという
特別なくくりではなく、
抽象的なビジネス論を、
フットボール産業という具体例に落とし込んだものに過ぎません。
換言すると、
ベースにあるのは汎用的な、
ビジネスに必要なロジックで、
具体に落とし込むときはフットボールに限らず、
あらゆる産業に応用可能な知識がある
と思っていただいていい。
■日本人にとって、
日本社会にとってスポーツは
「よいもの」だから
「自然に社会に大きな価値をもたらす」
と解釈されている(と考えている)
ところが「よいもの」である一方、
暴力、体罰、差別、セクハラ
といった問題はいまだ後を絶たず、
すべてが明るみになっているとは
考えにくいのも事実。
日本的スポーツらしさは、
それらを「ある程度必要」として合意しているのか、
いずれにしてもスポーツがもつ
ユニーク性、ある意味では閉鎖性
ともいうべき文化は
「よいもの」に対して
疑問を挟む余地をなくしている。
人々はスポーツがなくても生きていける。
社会も同様だろう。
であるならばなぜ、
スポーツが「よいもの」であるのか?
スポーツは社会的に構成された存在で
自然にあるものではありません。
余暇の遊びから発展し、
皆が共有できるルールを設けた時点で
人口の産物=社会的存在
です。
戦後、
軍隊的な慣習がスポーツに持ち込まれ、
「人材育成」という文脈において
スポーツが有効であるとの認識は、
実は今なお日本社会、
とりわけ企業に多く残る共鳴関係でもあります。
自然界に純粋に、
汚れなく存在するものではなく、
社会的存在としてのスポーツに対して、
特別視せず、いったん立ち止まって、
スポーツがなぜ「よいもの」なのか?
問い直してみるのも
おもしろいかもしれません。
■私がたずさわっているサッカークラブは、
「共創」をテーマに
人々や社会をつなぐ装置としてスポーツを捉え、
その価値観をベースに集客をすすめている
あたらしいコミュニティのカタチです。
旧来型コミュニティの崩壊、
人間関係の希薄化、格差や孤独、
不安の問題が拡大する中、
「スポーツを通じた人々のつながり」
は社会的重要性を高めていくはずです。
震災の絶望感、無力感
がただよっていた2011年。
なでしこジャパンがタイトルを手にして
国民は熱狂しました。
選手に同化して、
身体的にまさる外国人選手を
打ち負かす姿に
「大丈夫」
という物語を感じました。
そこに「つながり」が確かに存在していました。
成熟化する社会において、
価値観の多様化、
価値の相対比が進んで、
人々がバラバラになる中で
失われた「物語」
幻想ですが、
そこに「生きていてよかった」
という自己効力感を取り戻す重要な機会
を生み出してくれる存在、
それがスポーツです。
■「物語」を共有し、
自らのアイデンティティを確認して、
皆がつながっているという感覚をいだく装置として、
今、サッカークラブの経営に携わっています。
日本的な慣習、もしくは思い込みを
いろんな方向から突きつつ
スポーツとはいったい何なのか?
社会にとってどういいのか?それはなぜか?
あらゆるものを批判的に思考して
肯定、否定、矛盾する感覚を放置しつつ
あらゆる可能性に心を開いて
スポーツを捉えていこうと思っています。
もし興味があれば
ぜひメールしてください。
今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。
それではまた明日。
おつかれっした!