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「能」を奥深くまで楽しみましょう(『和ろうそく能「葵上」生霊となる愛』感想文)


はじめに

この度は、初めての観能ということで緊張していましたし、伝統藝能は敷居が高い(誤用)との先入見を持っていたので、きちんと楽しめるか不安でもありました。しかし、それらの心持ちとは別に、ある種の余裕を持って臨めたこともまた事実です。というのも、今回鑑賞する『葵上』の詞章[1]を前もって予習してきたからです。今回はプロジェクターによって舞台上に詞章が映し出されていましたが、それでも、知らない単語などを調べつつ初めから終わりまで事前に理解する、という準備をしておいてよかったと思います。また、それのみならず、「能」という伝統藝能にまつわる知識(「シテ」と「ワキ」との関係とか、登場人物たちが出てくる廊下を「橋掛がり」と呼ぶこととか)をたくさん調べて、いわば「耳学問に限っては修了した」くらいの自信は持っていたわけです。さて、そのような私が、生まれて初めて、生で能を鑑賞して、どう感じたのでしょうか。
なお、本記事は、能を観たことがない方や全然知らない方に向けて書きました。単なる鑑賞記録というばかりでなく、『葵上』という演目の解説や鑑賞時に役立つ基礎知識を多分に含んでいるはずです。少しでも能に興味をお持ちの方は、ぜひご一読ください。

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[1]: 能などで謡われる(演じられる)文章のことです。演劇で言うところの戯曲だと思ってください。

『葵上』

その一(設定)

今回鑑賞した『葵上』は、世阿弥(1363?-1443?)の作で、かの有名な『源氏物語』の「葵の巻」に取材しています。「葵上」というのは、作中に登場する女性の名前です。光源氏の最初の正妻であり、また左大臣の御息女ということにもなっています。能の方では、この「葵上」は登場しません。舞台前方に小袖[2]がぽつんと置かれており、それが病に臥せっている彼女を表現している、ということになっています。
現在ではおよそ有り得ませんが、『源氏物語』の時代では、病などは物の怪の仕業と考えられることがありました。そこで、葵上に仕える廷臣(ワキツレ[3])は、照日の巫女(ツレ)という梓弓[4]の名手を召し、彼女に取り憑いている物の怪を引きずり出そうとします。すると出てきたのは、元皇太子妃で光源氏の元愛人・六条御息所(ろくじょうみやすどころ)。彼女が本演目の主人公(シテ)です(「葵上」なのにそのライバルとも言えるキャラクターが主人公なんて、少し変ですね)。

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[2]: 平安時代の宮中における礼服下着。袖丈が短く、現在の「着物」で思い浮かぶようなデザインです。
[3]: 「ワキツレ」・「ツレ」・「シテ」などは、役柄のパターンを表します。「シテ」が主人公で「ツレ」がそのお供、「ワキ」は「シテ」の相手役、と捉えておけば問題ないでしよう(「ワキツレ」は「ワキ」のお供です。『葵上』は「ワキ」が前場で出てこないので、少しややこしいですね)。
[4]: 梓の木で作られた弓で、弦を棒で叩いて音を出す道具です。古くから、霊を呼び寄せたり吉凶を占ったりするために使われていました。

その二(前場 イ)

能は、前場(まえば)後場 (のちば)とに分かれるのが通常です。二幕構成のオペラみたいなものですね(但し、間に休憩はありません)。本演目における前場の最初の見どころは、引きずり出された六条御息所の霊が、光源氏との思い出への未練や葵上に対する恨みを語る場面です。ちょっと詞章から引用してみましょう[5]。

シテ ただ今梓の弓の音に、引かれて現はれ出でたるをば、いかなる者とか思し召す、これは六条の御息所の怨霊なり、われ世にありしいにしへは、雲上の花の宴、春の朝の御遊に慣れ、仙洞の紅葉の秋の夜は、月に戯れ色香に染み、華やかなりし身となれども、衰へぬれば朝顔の、日影待つ間の有様なり、ただいつとなきわが心、もの憂き野辺の早蕨の、萌え出で初めし思ひの露、かかる恨みを晴らさんとて、これまで現はれ出でたる

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[5]: https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc14/aoinoue/kansyou/shisyou/pdf/aoinoue_shisyou.pdf (2024年7月7日取得). 以下、本記事における「詞章」は全てこのテクストから引用します。

「私を誰と心得る、六条御息所の怨霊ですわよ。昔は光源氏との華々しい思い出があったのだけれど、今はただ憂わしばかりです。あなたのせいですわ。この恨み、晴らさでおくべきか」というのが大意ですが、実際の詞章は、なんというか、平安貴族の気位があると思いませんか? 上述したとおり、六条御息所は元皇太子妃でもあるわけですから、未練と恨みとにかられても、あくまで品位を保っているわけです。
その点は、演じる能楽師の所作にもじゅうぶん表れていました。前場で行われたは非常にゆったりした動きで、それだけ抜き出して鑑賞してもうっとりするくらい流麗なものだったのです。

ここで気になるのは、六条御息所はそもそも葵上になぜ取り憑いたのか、ということでしょう。『源氏物語』を既読の方は知っていらっしゃるでしょうし、そうでなくとも「単に嫉妬で済むんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、ちょっと説明させてください。
彼女の葵上への恨みには、きちんと理由があります。ある年、京で行われる賀茂祭[6]の行列に光源氏が参加することを知った六条御息所は、(このとき既に破局していたものの)元恋人を一目見たいと、お忍びで祭を見物しようとします。その際、牛車を停める場所を巡って、葵上一行とひと悶着あったようです。上述したとおり、葵上は左大臣の御息女で光源氏の正妻ですから、停車場の場所取りでも特権を振るって、他所の牛車を押し退けることなど他愛もないのです。果せるかな、六条御息所はこの争いに敗れ、牛車をボロボロにされるという辱めを受けます(酷いですね)。
この要素は、詞章にも反映されています。六条御息所が登場する際には、「三つの車に法の道、火宅の内をや出でぬらん。夕顔の破れ車、遣る方なきこそ悲しけれ」と、「三車火宅の譬え」と呼ばれる仏教の説話と掛けた口上が発せられており、彼女は「破れ車」に乗ってやって来たということになっています(実際の上演で車の作り物はありません)。

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[6]: 現在では「葵祭」と呼ばれています。

その三(前場 ロ)

さて、憎き葵上を前にした六条御息所の怒りは次第にヒートアップ。前妻が後妻を棒で打ち叩く「後妻打ち(うわなりうち)」という行為に出ます。これが前場の二つ目の見どころでしょうか。ここでも詞章を引用してみましょう。

シテ あら恨めしや、今は打たでは叶ひ候ふまじ
〔……〕
シテ 今の恨みはありし報ひ
ツレ 瞋恚の炎は
シテ 身を焦がす
ツレ 思ひ知らずや
シテ 思ひ知れ

なんというか、オペラで言うところの激しいコロラトゥーラを要する歌唱、という感じがしませんか? ちょうど「夜の女王のアリア」のような。とはいえ、能でそのような技巧はもちろん使われません。そもそも西洋音楽のような旋律自体がなく、オペラで言うアリアや重唱のような部分は、太鼓や小鼓、笛などの「囃し」に乗せて、語るように謡われます。そのような能の「謡い」は、俄かに激しさを増す「囃し」の調子や、能楽師自身の「型」[7]と併せて、独特の迫力を備えていました。まさしく「鬼気迫る」という感じでしょうか。
また、私が感じたこの迫力は、能ならではの没入感によっても齎されていたと思います。作り話であることを忘れて、まるで「後妻打ち」の場に私自身が居合わせているかのような没入感です。つい息を呑んだり、「ああ労しい! もうやめて!」と叫びそうになったりしました。どうしてそこまで没入できたのでしょうか? 私が思うに、舞台上の「情報の少なさ」が大きな効果を上げているのでしょう。
まず、能の舞台は非常に簡素な作りとなっています。皆さんが思い浮かべるような、大きな松が奥の壁に描かれた正方形の舞台。どの演目を上演する際にも、この風景は変わりません。基本的に、特別な大道具を用意することもなければ、場面に応じた飾りつけもしません。また、能楽師は通常「能面」をかけて[8]演じるので、登場人物の表情さえわからないわけです。このような「情報の少なさ」によって、想像力が虚構の中に浸透し、現実との間(あわい)が曖昧になり、実際の出来事を見ているかのような錯覚に陥ったのでしょう。

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[7]: いくつかのパターンに分類された動きのこと。能においては、これがかなり重要な要素を占めます。
[8]: 能面は、「かぶる」ではなく「かける」と言うようです。

その四(前場 ハ)

激しい「後妻打ち」の直後、六条御息所は自分の惨めな有様を再び嘆き、葵上の魂を抜き取って「破れ車」で連れ去ってしまおうかと言い始めます。ここでは「地謡(じうたい)」というコーラス隊が彼女の心情を代弁します。例によって引用してみましょう。

地謡 恨めしの心や、あら恨めしの心や、人の恨みの深くして、憂き音に泣かせ給ふとも、生きてこの世にましまさば、水暗き、沢辺の蛍の影よりも、光る君とぞ契らん。
シテ わらはは蓬生の、
地謡 もとあらざりし身となりて、葉末の露と消えもせば、それさへことに恨めしや、夢にだに、返らぬものをわが契り、昔語りになりぬれば、なほも思ひは真澄鏡、その面影も恥づかしや、枕に立てる破れ車、うち乗せ隠れ行かうよ、うち乗せ隠れ行かうよ。

ここでは、六条御息所と葵上との対比がキモになっていると思います。「あなた(葵上)は人に恨まれて泣いたとしても生きている限り光源氏と愛し合えるのに、それに引き替え、私(六条御息所)はかつてと違う身の上になってしまい、あの人との愛はもう返ってこない。今では、あの人への思いを浮かべることさえ、なんだか恥ずかしいわ」というニュアンスで読めば、つい先ほどの激しい鬼女が一転して、どことなく弱気で可哀想な女性、という趣がないでしょうか。
実際、急激な変化に私は驚きました。この辺りの六条御息所は、本当に可哀想な姿に見えたのですから。というのも、能面をかけている登場人物は「表情さえわからない」と上述しましたが、実は、この能面にはまた独特の表情が存在しているのです。喜怒哀楽のどれでもなく名状しがたい表情に象られている能面は、かけている能楽師が顔を傾ける角度によって、その表情が千変万化するように出来ています
それは決して誇張やデタラメではなく、失恋・落魄した女性の今にも泣き出しそうな(あるいは泣いている)姿が、シテの能面の絶妙な傾け方・動かし方によって、ありありと浮かび上がってきたのです(「そんな馬鹿な」とお思いの方には、実際に鑑賞して確かめていただくしかありませんが)。また、ここでもやはり「型」の妙が活きていました。「シオリ」という悲しみを表現する典型的な「型」が行われていたのが特に印象的で、つい先程まで恐ろしかった六条御息所の身体が一回りくらい縮んだかのようにさえ見えたものです(能楽師、恐るべし)。

その五(中入り)

さて、「うち乗せ隠れ行かうよ」とは言ったものの、葵上を本当に連れて行ってしまいはせず、六条御息所の霊は一旦退却し、ここで「中入り」となります。この「中入り」とはシテが奥に引っ込むことを言い、上述した「前場」と「後場」とがこれを境に分かれるわけです。
また、シテが「中入り」している間、「間狂言」(アイ)が場を繋ぎます。これは狂言師が担当します。間狂言には「語り間」・「アシライ間」の二つがあり、前者は物語の背景事情・要点などを私たち(観客)に解説する役を、後者はシテやワキと絡んで物語を進める役を務めます。「狂言回し」なんていう言葉は、この辺りが語源となっているのでしょう。
本演目の間狂言は後者です。詞章に沿って説明すると、狂言師は、葵上の廷臣の命を受けた従者として、「横川の小聖(こひじり)」と呼ばれる祈祷師を訪ねることになっています。(舞台上では引っ込んでいるものの)六条御息所の霊の力は強くなっていくばかりなので、更なる凄腕にお願いしようというわけですね。

その六(後場)

横川の小聖が葵上の元へ到着して祈祷を行うと、六条御息所の霊が再び姿を現します。ここからが後場です。前場と後場とでシテの面が異なっているのも、能の楽しみどころの一つです。今回は、テレビなどで皆さんもきっと見たことのある般若の面を生で拝見することができました[9] 。
『葵上』の後場は、前場と比べてかなり短く(詞章の文字数を数えると概ね 1/4 程度)、その分見どころも限られてきます。さしずめ、六条御息所と小聖との対決が最後の見どころでしょう。シテは、ここでも激しい大立ち回りを演じておりました。そして、六条御息所が小聖の霊力に負けてついに成仏するというのが、対決の、また本演目全体の結末です。その単純な展開とは裏腹に、追い詰められていく彼女の有り様が、般若の形相をしているにもかかわらず(!)何ともいじらしく映り、その割り切れない心情を思わずにいられませんでした。単なる敗北や改悛ではなく、最期に自分の所業を悔いて狼狽えているような、そんな機微まで想起してしまったのです。

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[9]: ちなみに、能面の種類にはいくつかのパターンがあり、役柄によってどのパターンの能面をかけるかが概ね決まっています。前場でシテがかけていた能面は「泥眼」といい、こちらもポピュラーなものです。「能」と聞いて皆さんがすぐに思い浮かべるであろう、怖い女性の面です。

おわりに

たった一種類の演目を鑑賞したに過ぎませんが、能という伝統藝能の奥の深さを体感することができました。それは、必要最小限まで簡略化された舞台が齎す独特の没入感です[10]。更には、「舞」・「囃し」・「謡い」(「地謡」)・「型」・「能面」といった要素[11]が、それぞれ決まりきった様式の選択・組合せでありながら、舞台上では登場人物の内面までをも生き生きと表現してしまうことの妙味でしょう。巷間言われる「余白の美」や「様式美」の本当の効力を、身を以て知ることができたと言えましょう。また、それは世阿弥が説いた「幽玄」という価値に当てはまるでしょう。これだけ言葉を尽くせども、あのときの「感じ」を汲みつくすには到底及びません。皆さんも、ぜひとも近隣の公演へ足を運び、能の価値を実際に味わってみてください。
本記事で書いた『葵上』の解説や能の基礎知識については、『the能ドットコム』という Webページを参考にしております。また、詞章の引用には『文化デジタルライブラリー』が公開しているテクストを使用しました。その他、調法と思われるページも併せて挙げておきます。鑑賞前にはこれらを参考に予習することをおすすめします。

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[10]: 本文中で触れられませんでしたが、本公演は「和ろうそく」という日本の伝統的な蝋燭の灯りで鑑賞するようになっており、通常とは異なる仄暗い空間が演出されていました。その点も、簡素な舞台の演出効果(それに加えて陰影の綾)を際立たせていたでしょう。
[11]: こちらも本文中で触れられませんでしたが、これらに加えて、「装束」(着物)も能の重要な要素です。他の要素と同じく、これも決まった様式から選ばれ、組合せられます。「装束」に着目して鑑賞するのも、また一興でしょう。

公演データ

和ろうそく能「葵上」生霊となる愛
会場:西宮能楽堂
シテ:梅若 基徳
ツレ:立花 香寿子
ワキ:福王 知登
ワキツレ:喜多 雅人
アイ:善竹 忠亮
笛:野口 亮
小鼓:上田 敦史
大鼓:森山 泰幸
太鼓:中田 弘美
後見:上田 大介、上田 顕崇
地謡:寺澤 幸祐、上野 朝彦 、上田 宜照、梅若 雄一郎


演目終了後の能楽堂の様子

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