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「ケツメイシ」のヒットの秘密とは? 〜対談 with YANAGIMAN #1 〜

THECOO 株式会社代表の 平良 真人( @TylerMasato )  の対談シリーズ。第三弾は、音楽プロデューサー・作曲家・編曲家の YANAGIMAN ( @YANAGIMAN ) さん。

『ケツメイシ』 や『 FUNKY MONKEY BABYS 』など数々のアーティストに関わってきたYANAGIMAN さんに、音楽作りのコツや プロデューサー の極意を伺っていきます。

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YANAGIMAN( ヤナギマン )
音楽プロデューサー(ケツメイシ他)、作曲家、編曲家、ベーシスト。
ケツメイシを始めとする様々なアーティストのプロデュース、作曲、作詞、編曲を手がけている。

運命を変えた CHEMISTRY の 『 愛しすぎて 』

平良真人( 以下、平良 ):YANAGIMANさんとは今まで色々お話しさせていただいているのですが、そういえば、音楽の話しを詳しくお伺いしたことなかったなと思って。どういう経緯で音楽をはじめたのですか?

YANAGIMAN氏:奄美大島の田舎に住んでいたこともあって、小さい頃から音楽に触れる機会も多く、ずっと音楽は大好きだったのですけど、高校までは受験勉強をしていたので、熊本大学の薬学部に入りました。

平良:薬学部ですか!?

YANAGIMAN氏:医学部には通らなかったので、薬学部に入って薬の勉強をしていたけど、やっぱり音楽が大好きで。その頃からとにかくバンドばかりやっていました。

平良:何をやられていたのですか?

YANAGIMAN氏:ギターとベースですね。主に弦楽器をやっていました。大学卒業後は、やっぱり音楽をやりたいなと思って、ジャズミュージシャンになりました。東京に出て来て、コントラバスを 7 年間やっていましたね。

平良:それが30歳くらいの時ですか?

YANAGIMAN氏:27歳ですね。20 歳から 27 歳まで。でも、ジャズの才能が僕には無かったのか、ずっと食べられなくて。その後、アメリカのボストンにあるバークリー音楽院に行くことにしました。渡辺貞夫さんとか有名な方も出ている学校でジャズの勉強をしたのですが、なんとなく東京ではもう成功する気がしなくて、九州の福岡に戻ることにしました。それから、仕事を再び探したのですが、なかなか見つからなくて…。そんな時、たまたまテレビ局のレポーターの仕事があったんですよ。

平良:えーーレポーターされていたんですか!?

YANAGIMAN氏:そうなんです。テレビ西日本で、温泉レポートしていました(笑)
探偵ナイトスクープのような夜中の番組だったので、きっちりとしたレポートいうよりは、面白さを求められていました。裸で「 皆さんこんにちは、今日は温泉に来ています!あれ、ここに温泉ないですね… 」と言うと、スコップが出てきて「 これで掘ってください 」って言われたりとか(笑)タレントみたいな活動をしていたんです。

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平良:じゃあタレントさんから始まったんですね!

YANAGIMAN氏:そうなんです、タレントをやっていたんですよ。30 才くらいまでですかね。テレビに出演するとギャラが良くて。

平良:当時は、テレビのギャラも高かったんですね。

YANAGIMAN氏:そうなんですよ。ギャラが良かったので、その間にたくさん音楽をつくって、デモテープを東京のレコード会社に送っていました。200 件くらい送っても全然返事は無かったんですけど、「 サウンド&レコーディング・マガジン 」という専門誌のオーディションに応募したら、優勝して。その前の年は槇原敬之さんが出ているようなオーディションだったので、もしかしたら東京でもやっていけるかもしれないと思って、35 歳の時に意を決してもう一度東京出てきました。

平良:それで東京に来られたんですね。ということは、27 歳からタレント活動をしながらもずっと音楽を作り続けていたんですね。

YANAGIMAN氏:そうですね。ひたすら作っていましたね。才能があるのかどうか自分でも分からないし、親にも「 お願いだからそろそろ音楽はやめてくれ 」って言われたりしていました(笑)でも、続けた結果、2000 年頃、ちょうど上京してすぐの頃にケツメイシと出会うんです。時代で言うと、音楽業界では宇多田ヒカルさんが大人気のタイミングかな。

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平良:宇多田ヒカルさんのデビューが 98 年頃だったので、ちょうどテレビに出演し始めて、「 First Love 」とか代表作が生まれていた時代ですよね。

YANAGIMAN氏:そうですね、確か。ちょうど宇多田ヒカルさんのヒットと共に、時代が変わって、デジタルレコーディングになった頃ですね。それまでは 20〜30 万円程かけてスタジオに入って、テープを回しながら録音するスタイルだったんですけど、2000 年あたりから音楽もパソコンを使ってレコーディングする時代になってきて。そんなタイミングで、僕はケツメイシと知り合って、当時は僕らは全然お金が無かったので、最初は本当に小さいデジタルのレコーダーで録音したりしていました。

平良:ケツメイシとはどういう出会いだったんですか?

YANAGIMAN氏:SOUL LOVERS というグループの Mahya というアーティストが「 すごい才能の子がいる! 」って、ケツメイシの Ryoji くんを連れて来てくれたことがきっかけですね。Ryoji くんに、「 実は新しいグループに入ったんだけど、そこのプロデュースをしてくれないか 」と言われて、何曲か作るところから始まりました。まだ真っさらな状態のケツメイシとそこで出会ったんですが、その頃のケツメイシはいやらし系の曲が多くって(笑)こりゃキビしいなと思いました。

平良:その頃は、どの辺りで活動されていたんですか?

YANAGIMAN氏:八王子、聖蹟桜ヶ丘とかですね

平良:八王子なんですね!?

YANAGIMAN氏:聖蹟桜ヶ丘あたりで活動していたんですよ。(笑)

平良:下北沢でもないんですね。

YANAGIMAN氏:そうなんですよ。その頃はまだ全然知られていなかったんですけど、ちょうど m-flo や RIP SLYME とかの J ラップグループが出始めた時期だったので、ケツメイシもその波に乗って、お客さんが 20 人くらいにはなんとかなって、細々と活動していました。そんな風に僕が Ryoji くんと一緒にデモテープを作っている最中に、ちょうど CHEMISTRY がオーディションをやっていたんです。

平良:ASAYAN ですよね!?

YANAGIMAN氏:そうです。その ASAYAN のオーディションの曲を作りませんか?という話がたまたま来まして。

平良:それはどういう出会いだったんですか?

YANAGIMAN氏:松尾潔さんという有名な音楽プロデューサーの方が、ソニーミュージックとオーディションをやるから、「 何曲か書いてみない? 」という突然のチャンスを下さって。当時、僕も Ryoji くんも全然知名度も無かったし、お客さんも先ほどの通りあまりいなかったんですけど、たまたま同じ九州出身だったからという理由で、そんなお話しをいただいて。それで、Ryoji くんと 2 人で曲を出してみたんですよ。そしたら、それがヒットしちゃって! Ryoji くんと一緒に「 これでご飯が食べられるね 」って、めちゃくちゃ喜んだ覚えがあります。

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平良:凄いですね!!それは、どんな曲なんですか?

YANAGIMAN氏:1 枚目のアルバムに収録されている『 愛しすぎて 』という曲です。そのアルバムは、200 万枚程売れて、『 愛しすぎて 』もCHEMISTRY の中で人気曲になりました。そのおかげもあってか、段々とケツメイシの人気も上がってきて、音楽で食べられるようになったんです。それが、2001 年、2002 年くらいですね。それからは、もうめちゃくちゃ働きました。

平良:そこからケツメイシがヒット曲を出していくタイミングが来たんですね。

YANAGIMAN氏:そうですね。ケツメイシの人気がどんどん上がっていて、それに加えて、他のアーティストもプロデュースしていきました。

時代とのクロスポイントを探してヒットを狙う

平良:ずっと曲を書かれていた中で、ヒットのタイミングって、何がターニングポイントになったんですか?

YANAGIMAN氏:何がかは難しいですけども、僕はデジタルのレコーディングを他の人よりも早くから始めたんですよ。コンピューターが好きだったというのもあるのですが、すごく遊べるなと思ってたくさん使っていて。

平良:スタジオの維持費も払わなくて良いですもんね。

YANAGIMAN氏:初期費用として機械代は少し値段は張るんですけど、スタジオ代を考えたら、すぐ取り戻せるので。そのデジタルへの移行の速さが僕がヒットを生み出すことができた秘訣だったんじゃないかなとは思っています。

平良:それは、他の人に比べて短い期間で多くの曲を作れたということなんですか?

YANAGIMAN氏:それもありますね。それと、デジタルの技術がその頃一気に変わって、CDJ というスクラッチが出来るターンテーブルも出来たり、今までは、大きくて重たい楽器・オルガンとかを二人がかりで運び込んだりする時代だったのに、軽いポリフォニックシンセサイザーが出来て、色々な音を簡単に録音できるようになったりしたんです。そこに僕はいち早く飛び込んで、音楽を作れたというのは強かったのかなと思います。
もう1つは、ちょうどその頃、宇多田ヒカルさんのおかげもあって、日本の音楽の流行りが、8 ビートのバンドミュージックからデジタルの音楽に変わっていったんですよ。だんだん 16 ビートの音楽が増えてきて、4 つ打ちのダンスミュージックがどんどん出てきたり。僕はもともと黒人の音楽が好きだったので、R&B の流行りにちょうど乗れたというのもあると思います。

平良:マーケットの流れと、テクノロジーの変化がマッチしたということですね。

YANAGIMAN氏:そうだと思います。

平良:そこに、ケツメイシの Ryoji さんとの出会いも重なったわけですね。

YANAGIMAN氏:そうですね。ケツメイシの Ryoji 君は天才といいますか、今でも素晴らしい才能の持ち主です。僕はもともと理系だったこともあり、理系脳で考える作曲の方法をしていたことも大きかった気がします。

平良:理系脳の方法というのは、どう違うんですか?

YANAGIMAN氏:まずは楽曲を徹底的に分析します。お願いされるアーティストをとことん研究して、そのアーティストが次にリリースするとしたらどんな作品なのか、ここから 3~4 ヶ月後は、音楽シーンはどんな感じだろうかと予測するんです。「 これかっこいいからやろうぜ! 」というよりは、色々と考えて、時代とのクロスポイント探って作っていきます。

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サザンオールスターズ から学ぶ 遊びの大切さ

平良:まず、一番最初にご飯食べられるようになったのが CHEMISTRY だったとのことなのですが、その次は、やはり ケツメイシ ですよね?

YANAGIMAN氏:そうですね。CHEMISTRY の次は ケツメイシ ですね。
「 ケツノポリス 」というアルバムを出していて、その時は、全部僕が曲作りをやっていました。低予算で作ったアルバムがかなり売れて。ケツメイシ をやっている間は印税が膨れ上がっていきました。

平良:ケツノポリス ももちろん聞いたことがあります。
世の中的に R&B が受け入れられる土壌が出来てきた中で、何を意識してヒットを作ろうと考えていたのですか?

YANAGIMAN氏:そもそも ケツメイシ の才能が本当に凄かったというのが大前提にありますね。僕が上京して初めて出会ったアーティストは、サザンオールスターズ の 関口 さんだったんですが、細々とアルバムを一緒に作っている中で感じたのは、言葉には表せない独特の感性がやっぱりあったんですよね。サザン はノンジャンルで、そして、どこか遊び心が溢れているんです。それがとてもエンターテインメントっぽいなと思っていて。その感覚を同じように ケツメイシ にも感じたんです。

平良:なにか醸し出しているものを感じますよね。

YANAGIMAN氏:それが大事なんだろうなと思って。例えば、愛を歌う曲で、「 君のことが好きなんだ 」という時にも、ちょっとした遊び心を乗っけるようにしたり。それが、ケツメイシ ぽさであり、その遊び心を大切にはしていましたね。

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平良:ケツノポリス より前の作品から、もうその感じはあったんですか?先程の売れる前のお色気系の曲の話を聞いてもそんな感じはしますけども(笑)

YANAGIMAN氏:そうです!そうです!ここじゃ言えないような曲も作っていましたよ。(笑)

平良:そう言えば、サザンオールスターズ も最初はコミックバンドって皆言っていたんですよね。

YANAGIMAN氏:エロ面白さ美しさ全てが混然一体となった感じの音楽ですよね。そういう音楽って飽きられ辛いなという思いはずっとありますね。

平良:その遊び心を大切にする思いは、「 ケツノポリス 」を作る時にも頭にあったんですか?

YANAGIMAN氏:そうですね、彼らが本当に遊ぶので、大人である僕としては、ちょっと違ったその先の遊びをやってみても良いのかなって思って。曲の中に、おならの音を入れたり、居酒屋の生録音を入れたり、普通のレコーディングでは入れないような音をたくさん入れてみましたね。

平良:歌詞ももちろんですよね。とても遊んでいますよね。

YANAGIMAN氏:歌詞はもうどれだけ遊べるかみたいなところがありましたね。

平良:それは、関口さんと一緒に曲作りをしたからこそ気付けたエッセンスもあるんですか?

YANAGIMAN氏:本当にそうですね!サザンオールスターズ ってもう偉大すぎて、関口 さんから楽曲の作り方を聞くと学ぶことが多かったですね。いろんな楽曲がどうやって出来たかとかをたまに話してくれるんですが、それを聞くと、本当に感動するんですよね。

平良:だから意外性があったり遊び心があったりするわけですよね。それを聞いて、そのエッセンスをどう入れていったんですか?

YANAGIMAN氏:それは今の僕にも活きていて、スタッフも含めて全員に出来た楽曲に対して意見をもらって、ちょっとした意見も全部頭の中に残すようにしています。メンバーの言っている微妙だと思うような意見も、1 度テーブルに上げて考えてみて、それでも面白くなかったら却下する。意見するということは、何か理由があるはずなので、そこは徹底的に検証して、出来るだけそれを活かしたいなと思いますね。

(つづく。)

ケツメイシとの出会いから、音楽で食べられるようになった経緯、ケツメイシのヒットまで、実は沢山のドラマがあったのだと知りました。
次回は、アーティストと関わる中で大事にしている点などアーティストとの関わり方を更に教えていただきます。

編集・構成 / 赤塚えり

プロデューサーの極意 #1「ケツメイシ」のヒットの秘密とは?
プロデューサーの極意 #2 アーティストに情報提供し信頼関係を築く
プロデューサーの極意 #3  爆発する"なにか"を探し続ける
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