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話したことない人の言葉に生かされるって感覚

タイトルにしたような感覚,お読みの方どう思いますか?

僕は割とそのような感覚に陥ることがあって,「こう考えていいんだ」・「自分の考えが完全に間違ってはいないのかもしれない」と勇気をもらうことがちょくちょくある.

で,直近で刺さったのは,【伊佐 知美】さん:TwitternoteInstagram
「旅と写真と文章と」という旅サロン的なのを運営している御方,と言えばいいのだろうか.

個人的に刺さったフレーズ

せっかく就職できた会社で働く、いまの暮らしに大きな不満があるわけじゃなかった。けれど「なんとなく」ぼやっとした感触だけ残して過ぎ去る毎日と、大きな分岐点なく過ぎてゆく20代半ばという「輝かしそうな」時代を前に、「このままじゃいけないような、気がする」という気持ちが消えないだけ。
だからといって、何を変えれば毎日が劇的に変化してくれるのかもわからないし、そもそも劇的に変えたいのかどうかだってわかんないし、どうなったら自分が今より幸せだ、とかぼんやりしてない、と思うのかどうかだって。大学を卒業してからのふわっとした日々で、自覚さえできなくなってしまった気がする。
誰かの物語の脇役として過ごす毎日は、どこか守られているようでぬるま湯で気持ちがいい。だって誰からも糾弾されないし、されたとしても「誰かのせい」にして言い訳が立つし、文句は言えるし、流れる日々は平和。「あっという間にすぎる」のは金曜日の夜から日曜日の夜までのたった48時間くらいの出来事だし、あとの週の120時間くらいは「早く金曜日の夜が来ないかな」で終わってゆく。
そんなのって、やっぱりどこか、物足りない。そうか、私は「もう一度スポットライトが当たる瞬間のある人生」が欲しかったのか。じゃあそれは、お金を払って文化を買うような生き方ではないな。ちゃんとこの両手と両足と、五感を使って生きねばならない。

完全なる共感というわけでない.
もちろん,体験や感覚も違うだろうし,そこから発される言葉も異なる.
だけれども,何か近しい感覚に浸されている気がする.

僕は個人的にこの似通うような本質的コトが,「自分が何者になりたいのか」表現できないもどかしさにあるのかと感じている.
上から目線っぽい表現で若干自己嫌悪に陥り自滅しながら書いているが,それが今の僕であることは事実として,いや自らへの解釈としてあるのだと思う.

そして,それを代弁してくれているかのような言葉に生かされたような感覚に陥る自分がいる.
自分をこの御方に投影したいわけでなく,どこか救われてホッとしているような,そんな感じ.

誰かの言葉は,誰かを救う.

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どうでもいい話,僕は自らを日陰を選びながら生きてきた人間の側なのだと思っている.

子どもの頃,特に小学生時代は元気いっぱいであった.
かといって,人前に立つことを自ら望んでいたかと言えばそうでなく,でも推薦されて運動会で体育委員会として選手宣誓をしたり,学級委員長もやったり(小・中学生含めて3回やった記憶が),中学・高校ではバドミントン部で部長を請け負ったりした,これらは全て他薦である…笑.
中学・高校の時は,特に高校の時は,暗いキャラクターとして鬱々と生きていて,多少のいじめを受け(気づいたら解決していた笑),それでも何を変えて生きていきたいのか狭い視野なりに小さい生を感じていた記憶がある.
他薦があまりにも嫌で人目をはばからず泣いたこともあった.
何故,他薦かはその時に考えもしなかった.
でもきっとその時は単純に自信がなかっただけで.
資格や自信というものがどんなものなのかを考えもせず,感情で嫌がっていたのだろう.

大学生の時もそうだ.
一種宗教的な「学内生活を充実する組織」になんとなく入り,知らず知らずのうちに熱狂し,サブリーダーに任命されたり,関東近辺や全国を回る一種の役員として任命され4年生の1年間と卒業してからの2年間を合わせて3年間を過ごしたり.
その時は,自らの意志で挑戦する価値があると信じ,ずぶずぶと深いところを目指して潜り込んでいった.

20代後半から,メモとして残しているわけでないが,過去の自分にとって印象的な出来事や自らの行動を振り返り,その時にわいた気持ちやそれの「何故」を振り返り自分がその時に何者であったのか,どのような道を歩いてきたかを,「わざわざ」意味づけすることを重要だと考えるようにしている.
自分の世界観を知るために,自分がどのようにどこを歩んでいきたいかをマッピングするためには,そのプロセスが必要なんだと直感が語っているような感覚に深く陥っている.
死ぬ時に自らのジグソーパズルが完成するかのように,生まれてから死ぬまでに認識・不認識するコトに関わらず一つひとつのピースにきっと意味がある.

話は逸れたが,多少なりともリーダー的立場にたつことがあったことを事実として認識している.
そしてその都度,自分にとっての挑戦であったし,潜り込もうと決意したことに価値があったと信じたいと感じている.
プロセスに善い悪いがあるかどうかが重要なのでなく,その時その時に自分が何者になりたいかが都度あることは,きっとそれ以上に意味があることなのかと.
そして,それがずっと続くことはおそらくかなりの場合であるわけでなく,自らが何を求めているのか内省をする必要があるのだと信じてやまない.

それと確信していることが一つ.
それは,自分という人間は言葉を,誰でもない自分のために紡ぎ続けなくては生きていけないのだということ.
嗚咽するように,苦しむように,溜まったら言葉を吐き続けていきたい.
今まで内省をなんとなくやってきて,なんとなく生きてきて,それでもそれなりに目の前のことに一生懸命であったり,出会ってきた人たちへの感謝を感じまくってきたり,そして何者かになりたくてそれこそ必死になって死んでいったりするためには,言葉に向き合い続けていきたい.

言葉や生き方は連鎖する.
意味もその解釈もその個体によって,ズレというより,個体にとって歩んできたバックボーンが異なるように,歩んできた土(体験やそこから育んできた価値観)で感触が異なってくるのかと.

何か利他的な貢献をしたい,その気持ちを大切にしたいがために,僕は生きたい.
そのためには,言葉や生き方に向き合い続ける必要がある.
自分を知る,というより,自分(自分以外の他者やコミュニティがその向かう先)への意味づけを多層にしていく感覚を養う.

ただそれだけの話.

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世界が豊かになるように,まずは自分がささやかな豊かさを味わわせてただきたく。