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老木を親に持つ、みなさんへ

「老木(おいき)になるまで、
花は散らで残りしなり」

世阿弥『風姿花伝』

世界で最も古く
「途絶えずに現存する演劇」
は日本にある。

じつは、それを作り上げた世阿弥という人は、

「老人、パネェ」
って言ってる。

600年以上前に、
『風姿花伝』という書で、そう言っている。

父親である観阿弥に関しての記述なのだが、
すっごく乱暴に、その部分を要約すると

若い頃の魅力は、花があり、美しい。
壮年期の魅力も、油が乗っていて良い。
そして、年老いてから、
老木となってからも尚、そこに咲く一輪の花
これはこれで、また非常に見事な
至高の芸である。

と、いうような意味だ。

その、父・観阿弥は
51歳で亡くなったとされている。

現代の感覚では、51歳なんて
全然、現役バリバリな年齢に感じるが、
当時はもう老人扱いされていたようだ。

なんか人生観が狂う。

人生100年時代と言われる今ならば、
70代後半ぐらいからが、
この老木(おいき)にあたるだろうか?

退職して後、
「さあ、どうする?!」となり、
セカンドライフに悩む現代人は多い。

仕事を生き甲斐としてきた人ほど、
その喪失感に苛まれる。

老後は
「キョウヨウとキョウイク」
が大事だと、確かずいぶん前に
新聞に書いてあった。
「今日、用がある。
今日、行くところがある。」
なんだそうだ。

自分の全盛期は終わった。
もうあとは、ささやかな楽しみを見つけながら
老いていくだけだ。

身体の衰えには抗えない、
脳もあやしい、
もはやこれまでか。

あとは次の世代に託そう。

そう思っていそうな顔、
見覚えありますよね?

たまに親の顔を見るたびに、
「ああ、老けたな…」
と思うのも、わかる。

実際そうなんだから仕方ない。

年老いてからも、昔の価値観を押し付けて
あーだこうだ言ってるのを聞いて
「老害」という単語が頭をかすめる
ことも、ある。

このスピードの速い現代においてはとくに、
まあ、それはそれで確かに、問題だと思う。

でも、少し、思い出してみてほしい。

油の乗り切った、
ギトギト気味だった少し前の姿を。

その顔には、今のようにシワやシミはなく、
パッツパツで、なんならテカってた。

そう、今の自分のように。

自分が年老いた時、
こんな姿でいいのだろうか?

100歳まで生きるとしたら、道はまだまだ長い。

少子高齢化で、
きっとそんな親を持つ人は、多いと思う。

老後の過ごし方って、
様々あって、勿論いい。

ゆっくり読書でもしながら
余生を送りたいという気持ちもわかる。

でも、もしあなたが年老いた親を見て、

「昔はこんなんじゃなかったのに、
もう一回ぐらいは、あの生き生きとした表情を
見てみても、いいかな?」

と、思うのならば、
「老木の花」
に想いを馳せてみてはどうだろうか?

もちろん、昔みたいな姿はもう戻ってこない。
というか、それを期待しているわけではない。
なんなら、それは面倒だからやめてほしい。

でも、
なにか、、、やってみたら?

過去の栄光に戻るのではなく、
いまの老いた姿に、もう一度
その枝に咲く一輪の花を
本人にも感じてみてほしい。

いや、自分も見てみたい、気がする。

そんな親であって欲しい、
と、いうわけではなくて、、、
それが自分のこれからの人生にも
なにかしら影響するかもしれないから。

それで本人も、少し
気を持ち直してくれたら、
一石二鳥だ。

枯れ木に花は、もう咲かないかもしれない。

コロナも経て、
すっかり疲れ切っているかもしれない。

でも、正直ちょっと思う、、、ちょっとだけ。

「もういいよ」
って、本当にいいの?

最後にもう
ひと花、咲かせなくていいの?

Mission:『老木に花を』

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