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『ファースト・マン』評:空想譚としての月世界旅行



はじめに


2019年2月8日、デイミアン・チャゼル監督の長編商業映画第三作となる『ファースト・マン』が日本国内でも公開された。しかるに、その全貌が明らかとなった本作は、チャゼル監督がそのフォルマリズムの映画作家としての側面を極度に先鋭化させた作品であった(念のために断っておくが、評者には、「フォルマリズム」という用語を特定のイデオロギーに基づいて蔑称として用いる意図は一切ない)。本作の内容がアポロ計画による月面着陸という、およそその内容を知らぬ者はないといえるストーリーを扱っていることも相まって、残念ながら本作の興行成績は相当な苦戦が予想される。

とはいえ、商業映画といえどもその内容に常にセンセーショナルな題材を求めることをよしとせぬような観客にとっては、本作の鑑賞は極めて大きな喜びをもたらすものとなるであろう。本稿では、チャゼル監督の過去作も踏まえつつ、本作が放つ魅力の源について若干の分析を試みたい。


チャゼル監督による空想譚追究の軌跡


さて、過去、長編商業映画として『Whiplash』(ほとんど許しがたい邦題は『セッション』)及び『La La Land』という音楽をモチーフにしたフィクションを手がけたチャゼル監督が、アポロ計画という「史実」を題材に大作と呼んでも差し支えない映画を、しかも表面的にはドキュメンタリータッチの映像を多用することによって完成させたことは一種意外な作風の転換といった印象を与える向きもあろう。だが実際に本作を鑑賞すれば、本作が、チャゼル監督が過去作で示した志向を更にラディカルに推し進めた作品であることが明らかとなるはずだ。

この点評者は、本稿の表題において本作を「空想譚」であると表現し、また、冒頭においてはチャゼル監督をフォルマリズムの作家であると規定した。これは当然、評者独自の見解であるとしても、何らの根拠なき見解ではない。そこでまずは、チャゼル監督の過去作を振り返りつつ、その作風の特徴について私見を述べたい。

チャゼル監督自身がジャンル映画としてのミュージカルに強い愛着を持ち、ジャズドラマーを志した自らの体験を反映した作品である『Whiplash』の成功をステップに、学生時代から温めていた『La La Land』のアイディアを実現させたというエピソードはつとに広く知られている。だがここで、チャゼル監督の過去の二作を単なる音楽をモチーフとした映画、あるいは「ミュージカル映画」の括りに納めてしまうことは果たして適切であろうか? これが評者が特に注意を喚起したい点である。

なるほど、『Whiplash』は全編にわたりドラマーを志す生徒とその教師との間の対立がドラム演奏を通じて繰り広げられ、それがクライマックスの頂点にまで至る作品であるし、『La La Land』は過去のミュージカル映画華やかかりし頃のフォーマットを参照した作品であると言える。だが、これらの作品はいずれも、隠しきれぬ一種の歪(いびつ)さを露呈していることを指摘する声も少なくない。

すなわち、『Whiplash』においては、中心的なモチーフとなるジャズドラムの描写が余りにも現実離れして荒唐無稽であり、ほとんど大リーグボール養成ギブスを装着するスポ根マンガの如き様相を呈している。また、『La La Land』についても、ミュージカル映画であるとの触れ込みに反してストーリーが進展するにつれ一般的なミュージカルシークエンスはなりを潜めるようになり、クライマックスで平然と展開される現実歪曲は観客に一種の居心地の悪さすら与えるに至っており、一般的なミュージカル映画の尺度を当てはめれば冒頭が最大のクライマックスと評されても仕方がないほどなのである。

このような、隠しきれぬどころか見方によっては露骨とも見える巨大な歪さは、従来の作品に見られた、フォアグラ生産よろしく観客に無理矢理多幸感を注ぎ込まんばかりのサービス満点の語り口と相まって、一部の観客にとってはチャゼル監督作品に対してアレルギーにも似た激烈な拒絶反応を呼び起こす原因ともなっている。上記の歪さをチャゼル監督が意図せぬ作品の欠点と捉える限りにおいては、かような拒絶反応を非難することは正当な理由が欠けるものと言わねばならないであろう。

だが評者は敢えて、このようなチャゼル監督の作品に見られる歪さは、その作品の形式故に要請された意図的かつ空想的なモチーフの展開であるとの見解を示したい。以下述べる内容は当然ながら完全に評者の私見ではあるが、それでもなお、読者から一定の理解を得られると信ずるものである。

ここで、チャゼル監督の過去作の構造に目を向けると、いずれも、クライマックスの頂点で明らかとなる事実あるいは真実が、それまでのストーリー展開や描写についての再解釈を迫ると同時に、観客にカタルシスをもたらすという構造が共通している。これを認知と逆転が同時に生じることでカタルシスが生じることが最善であると説いたアリストテレスの見解に当てはめるならば、チャゼル監督は古典的な悲劇の形式に時代錯誤的なほどに執拗に忠実な作家であるとも言えよう。

そしてチャゼル監督の過去作におけるクライマックスの機能的側面を見れば、(ネタバレ防止の観点から抽象的な記載にはなるが)過去二作のいずれにおいても、先に指摘した作品が内包する歪さそのものが、クライマックスで明らかとなる事実と密接に結びついていることが判明する。端的に指摘すれば、チャゼル監督作品のクライマックスが機能するためには、クライマックスにおいては常にスクリーンの上で、それまでのストーリー展開におけるリアリティラインを破壊せぬように「あり得ないこと」が展開されねばならぬのである。このような意味において、『Whiplash』のクライマックスが成立するためには、その中心的モチーフとなるジャズドラムはあたかもテニスコートの上で必殺技が飛び交い犠牲者が出るマンガの如き扱いを受けねばならないし、『La La Land』の劇中に見られるミュージカルシークエンスは、ストーリーの進展に伴い観客の違和感を呼び起こしてゆくツールでなければならないのである。

付言すると、以上に述べたような観点に起因し、チャゼル監督のミュージカルに対する愛着の実態は、スクリーン上に「あり得ないこと」を展開することを志向するミュージカル映画の形式ないし手法へのオブセッションではないかと評者には思えてならない。このような手法や形式がミュージカルのジャンルを超えて作品に適用され、同時に通常のミュージカル映画であればストーリーテリングの手法を通じて払拭されねばならない非現実性に対する違和感を隠そうともしないこと、さらにはそのような形式に愚直に従った結果、空想的モチーフの拡大が図られていることが、チャゼル監督作品に対して一部の観客が抱く拒否反応の根本的な原因ではなからろうか。要するに、現代的なエンターテイメント映画のサービス満載の語り口とアリストテレス的な意味における古典悲劇の形式は、観客の嗜好によっては「食い合わせ」が悪いとしか言い様がないのである。

ともあれ、以上に述べたチャゼル監督の過去作に顕著な構造や形式の優先、及び、その形式に従うが故の中心的モチーフの空想性の拡大こそが、評者がチャゼル監督をしてフォルマリズムの作家と規定する根拠である。

ところが本作『ファースト・マン』は過去作から一転して、アポロ計画を通じた月面着陸という「史実」がモチーフとして扱われており、このようなモチーフには空想的要素を展開する余地がないことは言うまでもない。それでもなおかつ、評者が本作をチャゼル監督の従来の志向を更に推し進めた作品であると考えるのは何故か。

結論から述べると、本作『ファースト・マン』においては、空想的モチーフは本作の形式の中に溶け込むに至っており、その空想性はストーリーの表面には殆ど表れないにもかかわらず、空想性が作品の構造の根幹となっているのである。この点について引き続き述べよう。


ドラマ性の執拗な拒絶


チャゼル監督の過去作に慣れ親しんだ観客はおそらく、本作の上映開始直後から強烈な違和感を味わうはずだ。飛行シーンや宇宙におけるシーンは、『Whiplash』で語り草となった交通事故シーンを彷彿とさせる衝撃を容赦なく観客に浴びせ続けるかのようであり、一方で、主人公ニールやその家族が素顔を見せる地上のシーンでは、まるで素人の手によるホームムービーとしか見えぬ過剰なクローズアップが連続する。特に序盤に顕著な、説明抜きで行われるカット間の大胆な時系列省略はジャンプカット的な効果でも狙っているのかと疑うほどだ。

そして、これらのスクリーンに映し出される映像からは、およそ何らかの一貫したストーリーを映像によって語る意図を読み取ることは極めて困難なのである。このように、本作ではチャゼル監督の過去作に見られたエンターテインメント映画の王道的語り口は全くと言っていいほどなりを潜めているのである。

そして観客に一種異様な感覚をもたらすのは、多用されるクローズアップの空虚さである。通常の劇映画では、(登場人物の視線がカメラを向き、次いで視線の先にあるものを映すカットが示されるという手法等を通じて)登場人物の視線が捉えるその対象を明らかにし、また登場人物の微妙な表情の変化を強調することを通じてストーリーを語る、というのがクローズアップショットを用いる際の常套であろう。ところが本作では、こうした一般的なクローズアップの効果が意図的に排除されているようにしか見えないのである。

結果として本作の映像は、制作者が一定の筋道に沿ったストーリーを語ることを敢えて拒否するドキュメンタリーとしてのダイレクト・シネマに酷似した印象を観客に与える。特にカメラあるいは他者との視線の交錯を執拗に拒否する、ライアン・ゴズリング演じるところの主人公ニール・アームストロングを尚も執拗にクローズアップする様は、あたかも、シネマ・ヴェリテにおいて質問者に対する回答を執拗に拒否する撮影対象者のごとき主人公の印象を強調し続ける。それに加えてニール自身もまた、自分の行動あるいは自分自身に英雄性が付与されることをにべもなく拒絶するセリフをしきりに口にするという徹底ぶりである。

それでも何故、評者はこの作品を空想的であると断言するのかについて、読者にとっては些か唐突に過ぎるかもしれないが、ここで一本の補助線を引いてみたい。

ドストエフスキーは、妻を喪った夫が独り語りを繰り広げるという体裁の自作である「おとなしい女――空想的な物語」という作品の序文において、当該作品がいかなる意味において「空想的」なのかについて以下のように説明している(米川正夫訳の「ドストエフスキー後期短編集」から引用した)。

このなにもかも書きつけた速記者という仮定(後でわたしがその書きつけたものを推敲したとして)、これこそわたしがこの物語において、「空想的」と名付けるものである。

つまりドストエフスキーは当該作品において、とある人物の独白が何故か作者によってテキスト化されそれが小説となっているのは、「この人物の独白をもし速記者が書き取っていたら(そしてそれを作者が推敲したら)」という仮定を前提としており、そして、その仮定こそが「空想的」であるゆえんであると言うのである。因みに、米川訳では「空想的」と訳されているが、翻訳者によっては同じ語を「幻想的」と訳しているケースがある。

この補助線を本作『ファースト・マン』にも適用すれば、評者が本作を空想的と考える理由は自ずと明らかであろう。本作は、「もしも、ニール・アームストロング船長及びその家族その他関係者への長期密着取材が行われてドキュメンタリーとして撮影されていたら」という空想ないし幻想に基づく形式を採用した上で、この形式を、空想ないし幻想のドキュメンタリーを全編にわたって展開する作品なのである。

本作はあくまで、劇映画として再構成されたリニアな物語を展開するノンフィクションではない。それと同時に、「史実」をモチーフとしつつも上記の空想ないし幻想に基づく再現・模倣が行われるという形で、一見するとそこまで形式を凝る必要があったのかという疑問が生じるほどの形式偏重が作品の構造の根幹を成しているのである。そして、かかる作品の形式の要請するところに従い、本作の主人公ニールがひたすら視線を外す様がクローズアップされているのである。

このような、作品の形式のレイヤーにおいて空想性あるいは幻想性を展開させる作品は、通常のフィクション作品であれば「仕掛けに凝りすぎ」といった非難を受ける危険が大きいことは読者にもご理解いただけるだろう。ところが更に奇妙なことに、本作『ファースト・マン』を鑑賞した観客が形式の肥大化といった違和感を感じる機会は殆どないはずである。なぜなら、本作ではチャゼル監督の過去の作品に輪をかけて、スクリーン上に「あり得ないこと」が大展開するからである。


交錯を避ける視線と、その視線の先にあるもの


空想ないし幻想のドキュメンタリーという手法がスクリーンにもたらすのは、「史実」であるはずの宇宙計画の、その途方もないあり得なさである。

国家の威信をかけて月面への人類到達を実現するという途方もない計画、だがその実態につぶさに目を向けると、全く別の意味での途方もないあり得なさが明らかになるのである。宇宙へと飛び立つロケットの巨大さに反比例するかのように、宇宙飛行士たちを乗せるロケット先端の宇宙船本体ときたら、控えめに言ってもガラクタの寄せ集めといった印象なのである。そのようなものに宇宙飛行士を乗せて宇宙空間に送り込むどころか月まで到達させようという計画の無謀さ。馬鹿馬鹿しいと言っても過言ではないほどの暴挙あるいは愚行、その途方もないあり得なさが、ドキュメンタリーの手法を再現・模倣することを通じて、ひたすらスクリーン上で展開し、強調されるのである。月面着陸船の練習船で月面着陸のリハーサルを地上で行うシーンに至っては、奇抜なガラクタの寄せ集めが宙に浮いているという非現実的そのものの光景に観客は唖然とするであろう。評者自身、現実にあのような練習船による訓練が行われたとはいまだに信じることができない。

一方で、先程述べたドラマ性の拒絶が徹底される結果、主人公であるはずのニールに関する描写は、その人物性の不明さをひたすら強調することになるのである。何故ニールがそれほどまでに月への到達にこだわるのか、その理由すら観客にも不明なまま、彼を気遣う同僚とのコミュニケーションを非常識なまでに拒絶して月を見上げ、物語の進展によりやがては「犠牲」という概念の共有すら放棄して任務にのめり込むニールの姿に、観客は一種の怪物性を見いださざるを得ない。

そのようなドキュメンタリー的映像の連なりによって、宇宙空間の危険と恐怖だけは余すことなく過剰に観客に突きつけられた末、物語の終盤には当然ながらニールは月面に着陸する。この月面着陸一つをとっても、観客がそれまで漠然とイメージしていたような、ふわっと垂直に月面に降下する月面着陸とはおよそかけ離れた光景を当事者目線で目撃するため、観客は等しく度肝を抜かれるだろう。そして同時に、月面着陸の成功という決定的瞬間に全くカタルシスが抜け落ちていることに、観客は本作を鑑賞する中でも最大の困惑を味わうことだろう。そう、真のクライマックスは、さらにその後、月面で訪れるのだ。

あまりにも平凡からかけ離れた行為を成し遂げ、ついに月面に自らの脚で降り立つニール。だが、その後のクライマックスの頂点でニールが行うとある行為が極めて平凡であるために観客の意表を突き、チャゼル監督がその形式において執拗にこだわるカタルシスの瞬間が訪れるのである。このようにしてニールの意図が明らかになる瞬間は、逆説的な意味で、正しくエピファニーの瞬間と言える。

そして、それまで隠されていたニールの意図が観客に認知されると同時に、それまで展開されたストーリーの中での描写は、コミュニケーションを拒否して月を見上げるニールの視線一つをとっても、観客の内面においてその意味の全面的な書き換えを迫られることになる。

そうしたクライマックスの頂点で、観客は遂にニールの真の姿を、その余りにも途方もなく巨大で非常識な真の姿をようやく知ることになる。ニールの真の姿を知らしめるという、このクライマックスがもたらすカタルシスに評者は心底呆然とした。このような形で古典的な意味でのカタルシスをもたらす本作は、観客に強く再鑑賞を迫る作品であるとも言えよう。


最後に


以上のとおり、本作『ファースト・マン』は、チャゼル監督の過去作からもアポロ計画による人類の月面到達というモチーフからも全く予想のつかない、クライマックスの頂点によって初めて物語の真の意味が観客に知らされるという構造を徹底した作品である。

そして評者の私見ではあるが、本作は、表面的なモチーフを過去作から大胆に変えつつもなお、チャゼル監督の過去作品と同様、表面的な狂気を超えたところにある、他者との共有を許されぬ孤独についての物語であり続けているのではないかと感じた。読者の感想はいかがだろうか。

いずれにせよ評者は、チャゼル監督の過去作品を好む観客に限らず、広く本作を推薦する次第である。特にチャゼル監督の過去作に拒絶反応をしめした読者には、スクリーンに向かって「こういう映画が撮れるなら、もっと前に撮れよ!」と監督を怒鳴りつける心づもりで鑑賞されることをお勧めしたい。

以上





(付記)

* 書いててすげえつまんなかった。もう二度とこんなのは書かない

* このレビューみたいな文章の描き方をする奴の言うことは信じない方がいいよ。どうせ自分が頭が良いと思い込んでるだけのファッキンハズキルーペ野郎だから

* 結局『ファースト・マン』が面白いのかどうかっていうと、自分は普通にお勧めです。超面白かった

* ドストエフスキーがどうたらみたいな話は、最近読み始めたバフチンの本からパクった



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