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大阪スパイスカルチャー

大阪にスパイスカルチャーを創り上げてきた
すべての先人に尊敬と感謝の意を込めて。

なにかとスパイスという言葉でもって関西(特に大阪)が注目されることが増えた昨今。ここらでぜひ、大阪の本当の歴史について知っていただきたいと思いました。

僕は大阪の生まれ育ちです。幼少期から、おいしいものとおいしいものを作る人々が大好きで、4,5歳の頃は暇さえあれば友人他人に関わらず隣近所の台所や食卓を巡ってしまうので、ちょっと変わり者、だったようです。

後、16歳で裏町の大衆中華で働きだし、そば屋のウェイター、餅屋、カフェ、スポーツクラブのラウンジ、魚市場の仲買、エスニックなバー経営などなど、様々な飲食の現場を経て、縁あってモノを書くようになりました。あえて何者かと問われれば、おいしいもの&おいしいものを創る人々研究家みたいなもんでしょうか。

中でもスパイスに対しては16歳から強い興味を持ち、カフェ時代(1980年代半ば。20歳過ぎ)には各食品メーカーのカレー製品、各地のレストラン、輸入雑貨屋などを巡り、スパイスをかき集めてはカレーはもちろん、多種多様なスパイスを利かせた料理研究に励みました。

その後もハーブやスパイスの研究を重ね、バー時代(1991年創業)にはインド式のホウレン草とトマトのカレー、ターメリックライスを組み合わせてラスタカレーと称し、レゲエシンガーのライブとコラボしたりしたものです。また1997年にはスパイス十割自家製粉カレー店(箕面)、翌年に日替わりインド料理店『THALI』を開業したりも。

著述については関西の雑誌や新聞はもとより、東京の雑誌、専門誌、企業の広告や資料の執筆、テレビの台本なども書くようになり、特に「食」をテーマにしていました。が、当時の社会は「スパイス」という言葉にはまだ馴染みが薄く、すぐに「カレー」という言葉に吸い込まれてしまうため、もっと幅広く料理が存在することを何とかメッセージしたくてがんばっていました。しかし、やはり当時の編集者には受け入れてもらえず。

そこで他人任せではアカンと、2007年に立ちあげたのが「スパイス料理研究所 club THALI」でした。料理研究のクライアント様から送られてくる食材を使いスパイスでもって研究するためのラボのつもりでしたが、近所の方々が食べたいと熱望してくださって、ならばと日曜のみ食堂としたのです。全員1000円一律。ただし、食味アンケートを書いてもらう約束で。そう、一般のお客さんが最終審査員、というわけです。なんだかめちゃめちゃウケてしまい、あちこちから取材もきていただきました。おそらくあの頃が「大阪×スパイス」のキーワードのブレイク年だったんじゃないかと思います。それまでは一様に「カレー」という一部のマニアの感覚。

この研究所は家族の大病もあって、わずか1年でクローズとなりましたが、編集者たちが思うよりもはるかにスパイスは大衆から興味を持たれているという実感を得ることができたのは大きな収獲でした。

僕のことばかりですみません。僕のことを知らない方のために、少しばかり自己紹介をかねてのお話でした。話を広くの「大阪」に戻します。

ここには僕が1990年代半ばから2019年頃までの約30年をかけて調べてきた「大阪スパイスカルチャー」の歴史の一部をシェアさせていただきます。何かのお役に立てれば嬉しいです。大阪よがりにならないように、他の地の情報や日本の時代背景を感じる情報もところどころに書き込んでいます。

調査方法は、飲食店や企業への取材、書物、図書館などがベースで、人伝が命綱です。詳細は巻末に。インターネットは補足的な感覚で一部使用。どちらがいいのかよくわかりませんが、なにか修正等お気づきのことがありましたらご連絡いただけると幸いです。→ clubthali@gmail.com

今回の情報の一部は、ナカノシマ大学での登壇(2019年12月)「大阪スパイスヒストリー」でも使用しておりますことをご了承ください。また持ち合わせの情報量が多すぎるため、特に飲食店名など割愛させていただいている部分が多くありますことご承知おきくださいますようお願いします。

『大阪スパイスカルチャー』

1.4世紀~ 薬草・生薬ステージ

スパイス(香辛料)が医薬という概念に発展していく。

ーーー歴史前~メソポタミア文明~ 経験則的に薬草の概念が育つ。

・4~5世紀~ ヤマト王権(奈良・飛鳥?)により大阪が交易の地となる。上町大地に運河の開削、難波津(なにわつ:高麗橋付近が有力)、住吉津(住吉大社付近)、渡辺津(天満橋から天神橋の間)、堺など数々の国際的な港が開かれる。

・5世紀~ 生薬を処方して治療、という医学の概念が入り込む。新羅(朝鮮)からの大使、医師、金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)が、時の允恭(いんぎょう)天皇の病を生薬を処方して治したという言い伝えがある。中医(中国医学)の伝来。当時は宗教家が医師的な存在であったと言われる。

2.6世紀~ 漢方医学ステージ

日本式の生薬医療「漢方医学」が発展。大坂が生薬の都に。

・6世紀~ 日本式の漢方医学が確立されていく。593年、四天王寺創建。唐出身の帰化僧、鑑真(7~8世紀)も医学に精通。612年、奈良県高取町に推古天皇や聖徳太子などが薬狩り(動物、植物共に)を行ったとあり、7世紀頃すでに漢方医学は浸透していたことが伺える。中国の神話に登場する神農は「百草をなめて薬草を見分け、医薬の道を開いた」という伝説がある。(くすりの道修町資料館)

・8世紀~ 東大寺に献納された聖武天皇の遺品の中に60種類の生薬。当時の日本が漢方医学を行っていたことがよくわかる。特に胡椒やナガコショウは、平安時代には調味料としても使われていたほど普及していた。当時のインド、中国、ヨーロッパなどでは、体内の浄化、解毒、解熱、強壮剤として、ローマではコレラやマラリアの特効薬とされていた。ヒポクラテス(BC460-BC375年)はインドの貴重薬剤として”胡椒”をあげている。

・17世紀~ 鎖国期、長崎に約20種のアジア産生薬を輸入。主には丁子(クローブ)=鎮痙、鎮痛、胃弱、健胃の薬として。肉豆蔲(ナツメグ)=鎮痙、鎮痛の薬として。肉桂(ニッキ・シナモン)=発汗、解熱薬として。胡椒(コショウ・ナガコショウ)=健胃薬として。ほか乳香や竜脳などの香薬類など。インドネシア、インド、ペルシアなど各産地の生産品をオランダ船が輸入していた。

ーーー1772年 インドベンガル初代総督ヘイスティングから、材料とインド米をイギリスのビクトリア女王に献上したことで世界へ「カレー」を知らしめた。

・18世紀~ 大坂(北浜)に薬種業者124軒の幕府公認株仲間ができる。薬種の都として栄華を極める。すべての唐薬種(輸入生薬)はまず大坂に集約され、検品と値決めを行ってから全国に運搬された。1780年には北浜・道修町に、薬の神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)と、医療と農業の神、神農炎帝(しんのうえんてい)を祀る少彦名神社が創建される。

3.1870年~ 食用ステージ

明治時代に生薬が衰退。カレー粉、カレーへとシフトしていく。

・1872 明治政府が西洋医学を制定し国家資格制度化。1883年には資格がなければ医業開業の許可を出さなくなったため、一気に漢方医学が衰退する。大坂の株仲間解散し、薬種問屋も先細となる。生薬衰退と入れ替わるようにして、日本にカレー粉とカレー料理法が伝わる。「西洋料理指南」「西洋料理通」にカエル・カレーのレシピが掲載。

ーーー1886 東京に帝国ホテル開業。
ーーー1893 『婦女雑誌』に鰹節の煮汁とあわせた出汁カレーのレシピが掲載される。★この時すでに「スパイス×出汁」に注目。東京発信!?
ーーー1897 「増補版実地日用西洋料理法」(杉本新蔵著)に、チキン、鶏卵、魚類、蝦、牡蠣、印度製、兎、野菜、の各カレーの調理法が掲載されている。「カレー粉の製法も原書中には載せてある」らしい。(森枝卓士氏著「カレーライスと日本人」)

同じ頃、オリエンタルホテル神戸に、フレンチメニューとしてカレーがあり、料理人にインド人がいた、と「神戸と洋食」(2019年刊。江 弘毅氏著)に書かれている。
ただ、いずれも高嶺の花だったようで、大衆には普及しなかった模様。

・1903 明治36年、大坂・瓦町(現中央区)『大和屋』現ハチ食品株式会社(二代目今村弥兵衛)の「欝金粉」(ウコン粉*ターメリック)が第5回内國勧業博覧會にて有効褒賞を受賞。当時、沖縄や薩摩が主産地だった。この「欝金粉」を主原料として同商店がカレー粉の製造を開始する。
以降『大和屋』の動き↓
 ・1905 カレー粉『蜂カレー』(日本初の国産カレー粉説)を発売。同時に香辛料の取扱を開始。
 ・1907 台湾に直営のウコン栽培農場を開設。
 ・1914 大正3年、上海支店開設。「家で洋風どんぶりが作れます!」と大衆化を推奨。以上、『大和屋』(ハチ食品株式会社)の流れ。

その後、続々と他の薬種業者も食品業者へと転換しカレー粉を生みだし、街中にはカレーライスを売り出す店が増える。大正カレールネサンス時代到来。やがて大衆と高級の二極化が進む。

★カワムラ手記「ウコンとカレー粉」
 明治時代後期、すでにウコン(ターメリック)は日本に存在していたようである。沖縄や薩摩などあたりから国内に出回っていたのではないかと推測される。用途は生薬、たくあんや染料としての着色料でもあった。非常に硬いスパイスなので、その粉砕加工技術は相当のものであったのではないか。
 二代目今村弥兵衛さんはこのウコンからカレーを連想し、カレー粉の製造に着手したという。また、当時の日本ではC&Bの偽造品が出回ってもいたようで、信頼のできる商品を届けたい、という思いもあったのではないかと思われる。
 発売当初は「家で洋風どんぶりが作れますよ!」と、家庭用として、リーズナブルに売り出した。また、これと同時に、欝金粉、青粉(青のり)、カラシ粉(マスタードパウダー)など各香辛料の販売も。
 さらに発売して2年後には、その広い土地と気候風土から、台湾にウコンの栽培農場も開設し、海外への輸出も始めている。
 1928年、昭和3年の本社屋看板には「コショー、カラシ、カレー、サンショー」、昭和19年の展示写真には「わさび、唐がらし、七味唐がらし」も加わっている。本来は一般家庭向けに製品を開発販売しつつも、スパイスの栽培、加工、輸出入、カレー等の製造、料理レシピの直伝、販売、そして国内初のカレー粉の製造など、すべて一貫して行うといった、その技術力と知識力の高さがあったことで、業務用としてのニーズも多かったという。かつては陸軍省や海軍省、鉄道省、後には学校給食、さらに同様の食関連企業からの製造依頼も増え、気が付けばスペシャリスト集団となっていた。まさに大阪が誇る日本スパイス界のパイオニアであり巨匠だ。
 現在はスパイスのボトル、カレー専門店のビーフカレー、アジア系のカレー、るるぶやレタスクラブなどとのコラボ開発、パスタソース、ドリアやパエリアなど、個人向けの自社ブランド品をたくさん開発している。

(↓やや時代が遡ります)

・1907 東京・新宿区の『三朝庵』がカレー南蛮を売り出す。が、苦戦?
・1909 大坂・東区の『東京そば』店主の角田酉之助氏は工夫を凝らしたカレー南蛮を流行らせる。後に帰京し(店主は東京人?)1914年頃、東京でも大衆に広まったとされる。そばには長ネギ、うどんにはタマネギ、が定法とのこと。
・1910 東京・四谷区の食料品店『田中屋』がそば用カレー粉「地球印 軽便カレー粉」を登録商標。
↑★この時代すでに”スパイス×出汁”の概念が開花したと言える!

・1910 大阪・難波に『自由軒』開業。ハイカラ西洋料理として。

・1913 大正2年、ハウス食品創業者の浦上靖介氏が大阪南区瓦屋町(現在中央区)にて薬種化学原料店『浦上(うらかみ)商店』を開業する。

・1915 大正4年『弘木屋』(メタル食品。現在、大同株式会社)がカレー粉製造開始。大阪市内(詳細地未調査)。

4.1920年~ カレー大衆食ステージ

そばうどんに続きカレーライスがようやく庶民の食べ物に。

・1920 大正9年11月に阪急本社ビル2階275㎡で阪急電鉄直営の『梅田阪急食堂』開業。手作りのオリジナルライスカレー(コーヒー付き)30銭で販売。創始者の小林一三氏が欧米視察の船中で食べたカレーをもとに作られたと言われる。

・1923 スパイス貿易の名門企業『小林桂株式会社』が神戸に移転。1883年横浜で薬種商として創業し、関東大震災を機に神戸へ。

ーーー1923 大正12年、山崎峯次郎氏が浅草七軒町に『日賀志屋』(現、エスビー食品株式会社)開業し、カレー粉を発売。東京・高田馬場『ノーブル商会』が即席カレールゥ「文化カレー」を実用新案登録。

・1926 大正15年、『浦上商店』が「稲田食品製造所」から工場・営業権を買い取り、食品製造販売業に乗り出しす。カレーパウダー「ホームカレー」発売。家族のみんなが楽しめるようにという思いから2年後に「ハウスカレー」に改称。1949年には社名も『ハウスカレー浦上商店』に改名。

★カワムラ手記「カレーはお家で」
「粉末カレー」ともいわれるもので、お湯で溶かし、具を煮た鍋に入れて混ぜる、といった商品。発売当時は殆どの人がカレーを見たことも食べたこともなく、都会の高級な「ハイカラ」料理とされており、地方の問屋に営業をかけても薬臭いと言われて8割は返品という状況だったとか。当時の宣伝方法は新聞しかなく同商店は大阪朝日新聞に1926年(大正15年)出稿している。缶入りの製品は木箱に入れられ問屋に卸していた。こつこつと口コミを増やし「ハウスカレー」にブランドを変えたあたりから成長時代に入る。ハウスとは家で楽しめる、誰もが楽しめる、という意味だったのか。1食2銭5厘の換算。(1927年昭和2年の『たいめいけん』のカレーライス一杯10~12銭の時代)

ーーー1927 インド人ラス・ビハリ・ボースの指導で「新宿中村屋」がインドカレーを発売。カレーパンの誕生。東京江東区の名花堂(現在はカトレア洋菓子店)が実用新案登録。当初は「洋食パン」と呼んだ。

・1928 大阪初の街場の高級西洋料理店『レストランアラスカ』(北浜)開業。1931年に中之島の朝日新聞ビルに移転。

・1929 4月、梅田に『阪急百貨店』が誕生すると同時に、7,8階に大食堂を開業。1920年(大正9年)から続くオリジナルカレーをメニュー化する。

★カワムラ手記「やすいうまいの原点」
1929年当時の『阪急百貨店』のカレーは一杯25銭だったという。同じ頃の東京『中村屋』のカレーが一杯80銭とのことなので3分の1以下だ。これが大食堂で人気№1の大ヒット。日本初の百貨店直営食堂でのカレー登場に、全国各地の百貨店が追随し、全国的なカレーの大衆化に拍車をかけたという。それが1931年、『阪急百貨店大食堂』となり、ライスカレー(コーヒー付き)を20銭にして、さらに人気爆発。1936年(昭和11年)の記録では、1日に1万3千食が売れたという。ちなみに戦後にはライスのみのメニュー化も行い、卓上のソースをかけて食べる通称「ソーライス」が流行したとか。(1931年当時、サッポロビールやキリンビールの大ビンが1本35銭。1934年のもりそばが10銭)

・1932 京都・伏見の『甘利商店』(現、甘利香辛食品株式会社)がカレー粉の製造、販売。

・1933 『ガスビル食堂』開業。『レストランアラスカ』と並び、大阪の本格的な欧風料理の草分け。高級カレーも負けていない。

・1935 『新大阪ホテル』が中之島3丁目に開業。「大阪に世界の賓客を迎えるための格調高い近代的高級ホテルを」という要望から、大阪市、住友財閥、大阪政財界が協力して設立。1965年、現在の中之島5丁目に移転し「大阪ロイヤルホテル」、1973年に「ロイヤルホテル」、1997年に「リーガロイヤルホテル」へと改名。ここから大阪フレンチ系のオリエンタルなカレーが受け継がれていく。

ーーー1936 東京日本橋『たいめいけん』のカレーライス一杯15~20銭

・1947 庶民のカレー店『ダルニー』が阿倍野で、『インディアンカレー』が難波でそれぞれ開業。

ーーーイギリス領インド帝国が解体。インドとパキスタンが分離独立。

1949 『ハウス食品』が「即席ハウスカレー」を販売。『ネスパ』(大阪・梅田)開業。洋食屋として。東京・銀座に『ナイルレストラン』開業(日本初のインド人による本格インド料理店説)

★カワムラ手記「即席ハウスカレーのレシピ」
 現存する製品の最古のレシピが以下のとおり。「玉葱半個を小さく切り、約一合の水で一寸煮てハウスカレーをコーヒ匙山盛三杯を三勺の水でよくとかして入れ、かきまわしながら煮立てますと「ネットリ」としたカレーとなり、此を二皿の温かき御飯にかけますと大変おいしいライスカレーが出来ます」(ハウス食品) 簡単にネットリ。お家でカレーの夢を実現できる、というアイデアがすごいとつくづく。

ーーー1956 西日本初のテレビジョン放送局、大阪テレビ放送局(OTV)が開局。朝日放送の前身。

ーーー1958 『チキンラーメン』発売。日清食品株式会社創業者の安藤百福氏が開発。1個35円。

・1959 『ハウスカレー浦上商店』を『ハウス食品工業株式会社』に改名。『㈱サンスパイス』(十三)スパイスの加工販売。1973年『カネカサンスパイス』に。

ーーー12月から本格的な世界紀行TV番組『兼高かおるの世界の旅』が始まる。多くの日本人が世界旅行を夢見た。

5.1960年~ 本場の味・開花ステージ

1964年の海外渡航自由化により徐々に本場の味が流れ込む。

・1960 江崎グリコ株式会社が、簡単に割って使えるカレールー「ワンタッチカレー」を発売。『ハウス食品』固形ルー「印度カレー」を発売。

・1963 ハウス食品工業株式会社がリンゴと蜂蜜入りの「ハウスバーモントカレー」ルーを販売。日本人による本場家庭系インド料理店『デリー』(神戸・中山手)開業。

★カワムラ手記「西は甘口カレー、のはじまり」
 「ハウスバーモントカレー」は子供から年配者までが楽しめると人気が沸騰したという。またそれまで小麦粉とカレー粉を使ってルーを作らずとも、ルーからカレーができるという手軽さも人気の理由となった。カレーは辛い、大人の食べ物、という常識を覆す革命となった。以来、東は辛口、西は甘口の傾向が強まる。ハウスはとことん”お家で簡単においしいもの”を築いてきた。

ーーー同年、視聴者参加型TVクイズ番組『アップダウンクイズ』(毎日放送)がロート製薬単独提供で始まる。10問正解すると日本航空の協賛により翌年の自由化にあわせてハワイ旅行を贈答された。

・1964 4月、海外渡航の自由化スタート。1人1年1回限定、持ち出し金額500ドル以内。

★カワムラ手記「1ドル360円の時代」
 1964年の日本人出国者数は128,487人。例えば公務員(巡査)の初任給が同年18000円のところ、東京~パリ片道約25万円という高さだ。一般人にはあまりに高嶺の花である。翌年には日本航空が日本初となる行先や宿泊先などをセットしたパッケージツアーを用意するが、当時のジャルパックのヨーロッパツアー16日間コースだと67万5000円(現在は約10倍の価値)と目がくらむような価格である。
 しかし翌年昭和41年には出国回数の制限が撤廃され、212,686人と渡航者は倍増する。やがて持ち出し金額の上限もなくなり1972年(昭和47年)1,392,045人とついに100万人の大台突破。1973年には円が360円の固定相場から変動相場制に移行し、その直後に260円まで円高となるが、同年秋にオイルショックが起こり300円まで戻る。
 1990年のバブル真っ盛り、1000万人を超える。その後2000年前後から格安航空券が普及し、1800万人近くまで膨らむ。2001年はテロの影響、2003年はSARS、イラク戦争などの影響で減少はありつつも、LCCの就航や格安な宿泊が可能なサイトの普及などにより、東アジアなら1~2万円で宿泊込みの旅行ができるなど、2018年には18,954,031人と過去最高をマークしている。*人数は延べ数で、日本政府観光局、または法務省のデータ

ーーー1964 『平凡出版』(現、マガジンハウス)、『平凡パンチ』創刊。
東海道新幹線(東京~新大阪)開業。東京オリンピック開催。神戸・三宮に外国航路の日本人料理人によるカレーポット入りの高級欧風カレーが味わえる『ぐりるみやこ』創業。

・1966 『伽奈泥庵』の前身『カナディアン』が南森町梅ヶ枝町に開業。当時は洋風。

・1968 大塚食品が日本初のレトルト「ボンカレー」を販売。1個80円。同じ頃『たいめいけん』カレーライス一杯130円。もりそば70円。ビートルズがインドへ渡る。★この辺りからインドの存在感が増す。

・1969 インド人による神戸外国人のためのスパイスショップ『インドスパイス・ビニワレ』開業。日本初のインド人によるインド直輸入スパイス問屋との説(1989年に法人化)

ーーー1970 『大阪万博』開催。半年間で外国人入場者数170万3000人。うち訪日外国人は118万人に上り、大阪に外国人が溢れる。

・1971 大阪初のパキスタン・パンジャブ・ハラールレストラン『レストラン・タージ』(本町)開業。ハウス食品工業がレトルト食品「ククレカレー」販売開始。

ーーー1971 ビートルズのジョージ・ハリスンが「バングラデッシュを救えコンサート」開催。バングラデッシュがパキスタンから独立。日本初の情報誌『プレイガイドジャーナル』(プガジャ)が大阪で刊行され、特にアジアへの安くて自由な放浪型の旅行を提案しだす。以来、アジア旅行者が急増。

・1972 『カンテグランデ』(中津)開業。店主の井上温氏と、『カナディアン』店主の故山田育宏氏などが、インドやネパールを旅し、本場の様々な文化をテーマに店づくりをしていく。

ーーー1ドル301円。雑誌『ぴあ』創刊。特撮TV番組『愛の戦士レインボーマン』。♪インドの山奥に住む年齢150歳の聖者ダイバ・ダッタに修行入りしたレインボーマンという設定。

・1973 12月『カンテグランデ』ウメチカ・ホワイティうめだ店開業。1982年に『カンテG』に改名。井上氏がカトマンドゥ旅行。1ドル280円。『カップヌードル・カレー』発売(日清食品株式会社)。『ゲイロード』(中山手通)開業。

ーーー1973 随筆家の田村隆一氏がインド旅行。(「インド酔夢行」'76年刊)。翌年にはカメラマン篠山紀信と美術家の横尾忠則がインド旅行。(「インドへ」'83年刊)

・1975 9月『カナディアン』が『伽奈泥庵』に改名。大阪初の本格高級ムガール料理店『アショカ』(大阪・梅田)開業。

ーーー歌手のばんばん「いちご白書をもう一度」大ヒット。料理のためのスパイスの書『スパイスの話』(斎藤浩著。柴田書店刊)刊行。

★カワムラ手記「なぜばんばんなのか?」
 実はばんばんこと、ばんばひろふみ氏はめちゃインド料理好きなのだ。最初にそれを知ったのはとあるTV番組でご一緒した時。僕がスタジオで超簡単カレーを作らせていただいたのだった。ばんばんは多忙を極めていた頃、ふとインドに渡航したそう。今でもインド料理が大好きだという。以来、僕の中ではばんばんの音楽を聴くとマサラな香りが漂ってくるのだった。

・1976 5種のスパイスを独自配合。日本人による大衆カレー専門店『小松屋』(大阪・十三)開業。同じく日本人によるスパイスを駆使した本格インド料理店『ぶはら』が神戸・元町(後に岡本へ移転)に創業。

・1977 中~高級の本格北インド料理を提供する『ガンダーラ』が神戸・三宮に創業。

・1978 南と北が融合した本格インド料理店『ケララ』(京都)開業。大阪・西中島に日本風だが甘ったるくないカレー専門店『PARK』開業。

ーーーゴダイゴの『ガンダーラ』が大ヒット。1ドル180円突破。

・1979 『カンテグランデ』阪急ファイブ店開業。『伽奈泥庵』の山田氏の体調不良のため一時閉業。

ーーーばんばん「SACHIKO」大ヒット。
ーーー久保田早紀「異邦人・シルクロードのテーマ」大ヒット。


6.1980年~ 本場の味・熟成ステージ

街に各国本場の味を提供する飲食店がますます溢れていく

・1980 『カンテグランデ』に本場式カレーやチャパティなどがメニュー化。

ーーーTVドキュメンタリー・シリーズ番組『シルクロード』(NHK)が始まる。

・1981 「スパイス×出汁」方式を確立し『伽奈泥庵』が谷町九丁目に移転再開(2018年3月閉店)。『どるめん』(園田)日本人によるインド式カレーが売りの喫茶店開業。『MOTI』(道頓堀)開業。高級な北インド料理のカジュアル化が加速する。

・1983 旨味と辛味を強調した日本人カレー店『ルーデリー』(東心斎橋)開業。小麦粉を使わずインド産石臼挽きスパイスを使用した『ボルツ アクティ大阪店』開業。

・1984 『RAJA』(神戸・元町)開業。本格的かつリアルな北インドの味を提供し神戸インド人から定評を得た。日本人によるリーズナブルで素朴なインド式カレーの草分け『レストランDiDi』(京都・岩倉⇒元田中)開業。

・1985 12月『カンテグランデ』アメリカ村店開業。

・1986 『ぐりるKent』(大阪・西天満)日本人によるセイロンカレーの草分け。イカの塩辛とカレーの組合せが評判を呼んだ。本格ムガール系『ムガール』(京都・木屋町)開業。日本人とインド人の二人三脚が斬新だった。『カンテグランデ』大阪マルビル店開業。

ーーー大阪のブルースバンド「憂歌団」がシングル「ユー・アー・マイ・エンジェル」のB面に「夢の印度」が収録される。

・1987 『サワディ』(道頓堀)開業。リアルなタイ料理の草分け。料理人もハーブもタイ直輸入。

・1988 日本人によるインド人直伝のチキンカレー『タンダーパニー』(豊中)開業。『カンテグランデ』アメリカ村店が閉店し『モンスーン・ティールーム』が継承。本格ターリーの走り『らくしゅみ』(大阪・新町)開業。

・1989 『ジャイプール』(大阪・八尾)開業。日本人によるタンドール職人の草分け。『まみ』(兎我野町ホテル関西別館)本格タイ料理のパイオニア。

ーーー1989 4月発行の「SEMBA」(月刊せんば編集室刊)でカレー特集。スパイスからのカレー作りページあり。

ーーー漫画「おいしんぼう」でカレー大王とされた森枝卓士氏による『カレーライスと日本人』(講談社刊)が、カレー粉の謎、日本のカレーの歴史、インドとイギリスの関係などについて書き上げ、カレー界のバイブルとして注目を集めた。

・1990 『タンダーパニー関大前店』(大阪・吹田)開業。北インド料理店『ピーナカーナ』(梅田)開業。丁寧な魚介料理が人気の『ナビン』(江戸堀)開業。本格的なパンジャブ系インド料理の『アジメール』が新神戸で創業。

・1991 『伽奈泥庵』の山田氏が『チャイ工房』を玉造(大阪・中央区?天王寺区?)で開業。大阪初のバングラデッシュ系『佳恋(かーれー)』(本町)開業。神戸・東灘区に世界各地の超一流ホテルで勤めあげてきたビジョン・ムカルジー氏をシェフとした『新印度料理カマール』創業(後1997年に三宮の『ショナルパ』に移動。2021年クローズ)。神戸・三宮には関西初の本格スリランカ料理『コートロッジ』開業。

ーーーインド人による本格料理本『インドスパイス料理』(レヌ・アロラ著:柴田書店刊)刊行される。

・1992 『ボンベイキッチン』心斎橋に開業。大阪ミナミ一帯に北インド系のさらなるカジュアル化を扇動。日本人による素朴なインドカレー『カシミール』(アメ村)開業。後に北浜へ移転。同じく日本人の素朴系『ターメリック』が大阪・弁天町に開業。すっきりとした旨みと辛みが人気を得た。

・1993 『チャイ工房』が大正区そのそば屋『凡愚』前で屋台営業開始。翌年9月に同区内北村で開業。ミナミ随一の北インド・高級ムガール『ゴータマ』(日航ホテル横)開業。

・1994 高級ムガール系『ナーナック』(心斎橋)開業。ミナミ随一の味と言われた。『カジャナ』(西中島)北インド・ムガール系での発信であるが2010年頃から西インド系にシフト。 

・1995 『バンジャーラ』(大阪・豊中)同じ北インドでもパンジャブ系が明確な点が珍しかった。ハイデラバード出身のインド人が『ナマステ』(心斎橋)開業。『チャイタイ』(大阪・日本橋)食材料店も営み、現地の調味料やハーブなどの普及に貢献。フィッシュヘッドや蒸し鶏を使ったシンガポール家庭カレー『シンガポール(心斎橋)』開業。

・1996 『ヒマラヤ』(大阪駅前第2ビル)開業。仲睦まじいボジョワニ夫妻が作る家庭料理『メイフィル』が神戸・三宮に開業。

・1997 日本人による素朴で飽きの来ないインドカレー『もりやま屋』開業(大阪・西天満)。

・1998 日本人による素朴でピュアな味わいのスリランカカレー『カルータラ』(肥後橋)開業。

・1999 パキスタン人のオーナーシェフによる『アリーズキッチン』(大正区)開業。無数のビリヤニやカレーにより本場の多様性を知らしめた。またカジュアルなハラル・ムスリムスタイルの普及にも貢献。2011年、心斎橋に移転。

7.2000年~ 多様化ステージ

日本人による本格料理店がラッシュ。

・2003 日本人女性による本格グリーンカレーが売りのクラフトビール店『サワディシンチャオ』開業(大阪・心斎橋)。

★カワムラ手記「ミセス・フレッシュハーブ」
『サワディシンチャオ』店主のおぐしみき氏は、開業前年の2002年に現地タイ王室ご用達料理教室でタイ料理を習得したという。その超ド級のリアルタイの味を大阪で再現しようと、当時まだまだ希少だったフレッシュハーブなどを調達して自家製ペーストをこしらえ、完全手作りのグリーンカレーを実現。これが食通伝いに評判となり2007年には東南アジア10か国の料理を作る専門店に進化。バックパッカーの拠り所として、また女性のフレッシュハーブファンの拡大に貢献した。店は2021年にクローズし、現在は東南アジア料理研究家、またYahoo!地域クリエイターとして日々東奔西走している。

・2004 ハウス食品株式会社からターメリックを主とした清涼飲料水「ウコンの力」を発売。カレーとは違うサブリメント・スパイス商品を提案。

・2005 大阪郊外の高槻に『カトマンドゥカリーPUJA』開業。ネパール人女将によるネパール系インドレストランはおそらく全国的に見ても今なお希少。

★カワムラ手記「ネパール人女性の活躍」
『カトマンドゥカリーPUJA』女将のシタウラ・プジャ氏が来日したのは2004年のこと。在日ネパール人がまだ5000人余りの時代(2023年現在は15万人以上)で、飲食店アルバイトをするなどして日本の感覚を手探りで体得し、翌年ご主人(日本人)と共に同店を開業。長女をもうけ、学校や地域と深くかかわりながら、日本人との信頼関係を築く。現在阪神間にフランチャイズも含め7店舗を展開している。ネパール系のインド料理店先駆けの一軒であり、ふわふわチーズナンの草分け的存在でもある。

・2006 『ゴヤクラ』(南船場)開業。カレーのようでそうでない、異次元のスパイスを駆使した汁かけごはんを店主の西川直氏は「和レー」と名付ける。大阪のスパイス創作の草分け。また同時に『バンブルビー』(西本町)開業。深いローストスパイス、マトンや猪、馬肉などジビエを使った独自性豊かなカレーが評判に。『ゴヤクラ』と並んで大阪に新たなスパイスワールドを切り開く。

・2007 『SOL』(箕面)開業。国内では希少(大阪では二人目)な日本人タンドール職人(店主)というのと、テイクアウト主体の営業スタイルが斬新。インド人によるスパイス輸入卸売販売業者『サルタージ』(豊中駅前。後に池田神田町へ移転)開業。肉料理とワインの店『YUZAN』(南船場)店主の安田宰英氏が難波にスパイス×肉のうまみに徹したカレー専門店『cumin』開業。

・2009 『デリー』(東京・湯島)で修業した店主によるオリジナリティ豊かなカレー『モリ商店』が大阪・西天満にて独立開業。大阪・天王寺町南に日本人による本格シンガポール式チキンライスが売りの食堂『堀内チキンライス』開業。大阪・日本橋に『シンズキッチン』開業。

★カワムラ手記「'80~'90年代のエスニックブーム」
『堀内チキンライス』店主の堀内浩樹氏は、大阪のエスニックブーム火付け役の一軒、元『遠東(ファーイースト)』の厨房で勤めていた。エスニックという言葉は、特に80年代はレストランのみならず、カフェ、バー、ギャラリーなどへと場が拡大。またファッションや雑貨などにも広がり、若者のトレンドとなり、街のあちこちからインセンス(スパイスや花などの香)の香りが漂ってくるほど一時代を築いた。『遠東(ファーイースト)』の創業年は不明。堀内氏によると「ファーイーストとして1988年に心斎橋・鰻谷で会社登記されていて、一時期は京都や梅田ナビオにもあったようです」。同創業者は他にもギャラリーカフェ『トリコロール』、カフェレストラン『MOMA』、クラブ的バー『Bar,isn't it?』など90年代の大阪の誰もが知るトレンドメーカーとして大活躍している。

・2012 4月に『ティラガ』(本店は京都。インド人経営)から引き継ぎ、山田康平氏が6月に『ナンタラ』(都島)として新規開業。大阪随一のケララ系南インド料理店となる(2021年クローズ)。

・2015 バーの『橋本屋』(南船場)が4坪のカレー専用個室を増設。本格タイ料理店『Two chefs』(十三)開業。

★カワムラ手記「バーで挽きたてガラムマサラ」
 注文後にホールガラムマサラを粉砕してからカレーを作るなんてあまりにも斬新なスタイルだ。昼は2006年開業時からカレー2種、ハヤシ1種のランチバッフェを継続中。2004年創業の天満店が1号店。2号店となる南船場店のみカレーメニューあり。2012年、天満に3号店も。カレー店でない業態だからこそ、また店主橋本健一氏がおいしいカレー、香るスパイスに純粋に興味があるからこそ、の規格を超えた発想と行動力の賜物である。

★カワムラ手記「ハイブリッド型日本人シェフの登場」
 店主の北村道雄さんは17歳の時にNPOを通してタイに渡って以来、頻繁に通いだし、神戸のタイ料理店でタイ人の中で唯一の日本人コックとして修行。後、タイ人のコックを従えて独立開業。自身も本格タイ料理人でありつつ、本場のコックと共に厨房に立つ期待のハイブリッド型。西中島と十三の間という実にクローズな立地環境であるにもかかわらず、日々、外国人客が大勢集っているのが面白い。

・2016 インド人によるスパイス正規輸入卸売販売業者『ヴィスワス』(服部天神)開業。

以上です。

●取材ご協力
ハウス食品株式会社様
ハチ食品株式会社様
『ガスビル食堂』様
阪急百貨店広報部様
中之島図書館様
各飲食店様
井上 温 氏様

●参照
くすりの道修町資料館
「琉球文化アーカイブ」沖縄県立総合教育センター
「香料の歴史 スパイスを中心に」山田憲太郎著 伊国屋新書 1964年刊
「スパイスの話」斎藤浩著 柴田書店 1975年刊
「値段の風俗史 明治・大正・昭和」週刊朝日編 朝日新聞社 1981年刊
「どのくらい大阪」毎日新聞ふらいで~と編集部著 いんてる社 1984年4月
「カレーライスと日本人」森枝卓士著 講談社現代新書 1989年2月刊
「月刊SEMBA増刊号/カレーライスの本」1989年11月刊
「近世日本の医薬文化」平凡社 1995年刊
「グルメマニュアル」京阪神エルマガジン社 1996年刊 
「ハナコウェスト・ベストセレクション」マガジンハウス関西支社1996年2月刊 
「ぴあランキングルメ3」ぴあ関西支社 1997年5月刊
「雲遊天下」2002年
「インドカレー伝」リジー・コリンガム著 河出書房新社 2006年12月刊
「琉球薬草誌」琉球書房 2015年刊
日本政府観光局 https://statistics.jnto.go.jp/graph/
日本旅行業協会 http://www.jata-net.or.jp/

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