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書を捨てないし、町へも出ない



「書を捨てよ、町へ出よう」

 
言わずと知れた寺山修司の評論集のタイトルであり、同時に名言でもある。
このような名著を読んでおらず恥ずかしいのだが、言葉だけを見て自分なりに意味を解釈すると、「本なんて読んでないで、町に繰り出そうぜ」といったところだろうか。
 
緊急事態宣言下、もしTwitterでこんなことを呟いたら、かの寺山修司でも炎上は免れなかっただろう。「外に出るな」「家にいろ」と国から命じられるなんて誰にも想像つくまい。

 
しかし、寺山修司はパリピだったのだろうか。
初版に収録された章タイトルを見ると「青年よ大尻を抱け」「自由だ、助けてくれ」「スポーツ無宿」など、ひきこもりには到底思い付きもしないものばかりだ。
劇作家としても活躍し、プライベートでは競馬への造詣も深い。
そりゃあ、「家になんかいないで、外の世界を見なさい」と唱えたくもなるだろう。

 
今回のような事態になって、この一言に凝縮されたメッセージ性に改めて共感する人も多かったに違いない。
オンライン~やら、リモート~やら、zoom~やら。
そんなんじゃなくて、実際に目で見て、耳で聞いて、体温に触れて、空気を味わいたいんだ…!と叫びたくなる人ばかりだっただろう。
本を通して伝ってくるものなんて、「リアル」じゃない。活字や絵から飛び込んでくる映像では、感動に限りがある…と。
 

これらの声を70%くらい肯定した上で、ほんのりと反論したい。
いや、反論というか、僕なりのポジティブな提案である。

 
もう、全部、あきらめればいいと思うのだ。


今までが異常だっただけで、この世界線がノーマルだと思い込めばいい。
居酒屋でお酒を飲むのも、遊園地でデートするのも、ライブ鑑賞も、サッカー観戦も、昼カラオケも、夜の街も…
一回全部なかったことにしましょう。一回。
少し身勝手な発言になるが、盲目の人が手術に成功して初めて世界を見たとき、どのような気持ちになるんだろう、と考えたことがある。
現実の世界が、幻想に思うのかもしれない。夢だと思うのかもしれない。この光景が思った通りの世界なのか、思った以上の世界なのか。
 
見ない方が良かった世界、知らない方が良かった世界もたくさんある。
たまたま、これまでの外の世界がキラキラして見えていただけなのだ。
元の世界のありがたみを噛み締めた上で、一回頭をフラットにしてみよう。
もう町には何もないと思って。家で全てが手に入ると思って。
 

本でしか得られない情報は、本でしか得られないから良いのだ。
小説は活字でしか入ってこないから、映像はこっちに任せられる。どんな顔か、どんな服か、どんな景色か。もちろんこれらも描写されているが、最終的に脳内で上映されるのは監督・演出・カメラマン、自分である。
漫画も同様である。絵と台詞だけの情報は、声や効果音は自分だけのスピーカーを通す。
大好きな漫画がアニメ化されて、初めて声を聞いたとき「なんか違う…」と思うのは、無意識に声を想像していたからだろう。

 
「想像力と数百円」


糸井重里の有名な新潮文庫のコピーである。
想像ができなければ、目に見えるものしか見えないのである。
この想像力を持って、一旦家にいましょう。
家でしか得られない感覚を研ぎ澄まして、限られた中で楽しみましょう。いや、この状況を「限られた」と思うのも、もうやめましょう。
これが普通なのです。これが日常なのです。
 
もしかしたら、いつか元の世界に戻るかもしれない。
そのときは、初めて外の世界に出るつもりで、初めて眼鏡を掛けたときみたいに、初めて夢が叶ったときのように、感情を解き放てばいい。
そんなノリで。そんな体で。


 
この文章、タイムリーじゃなくない?という人も沢山いると思う。

しかし、想像してほしい。

僕はこの文章を家なんかで書いていない。町にはめっちゃ人がいる。
この文章を書いたのはずっと前のことで、町の喧騒を聞きながらの執筆だった。
そして、僕は日本にいない。「僕」と言っているが、性別は女だ。
なんなら、僕が書いた文章でもない。

もっと言えば…。
 
真実は誰にもわからないが、全部、想像次第なのだ。

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