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譲歩という歩み


譲歩とは、
「自分の意見や主張を押さえて相手の意向に従ったり妥協したりすること」らしい。

自分の意見を押し殺す、相手の意見を渋々受け入れる、という印象があるため、何となくマイナスイメージがある。

幼少期の自分の中の辞書に譲歩という言葉はなかったはずだし、仮に譲歩する・される場面にいたとして、それを譲歩だと認識できなかっただろう。ただ、大人になってからは譲歩する場面なんて山のようにあるし、それはそれで無意識に譲歩しすぎて意識しないだろう。

実は、譲歩は人生において欠かせないことで、これまでの道のりを振り返ると割と大きな距離を譲歩で歩んできたといっても過言ではない。

家族と話す時はどうだっただろう。


自分の意見を全て押し通してここまで成長することができただろうか。
支離滅裂な意見、無茶なお願い、家族だからこそ相談できること。全部が全部、自分の思い通りだったはずじゃない。

僕が欲しかったおもちゃを全て思いのままに買ってもらえていたら、今の進路に進めていただろうか。

知らずのうちに家庭内でも譲歩して、自分の主張が大きい分、相手の主張も真っ向から受け止めないといけない。でもそれができるのは家族しかいないように思えるし、その意見は至極真っ当で、「自分の要求の幼稚さ」「相手の意見を尊重することの大事さ」などなど、多くの道徳や倫理観を植え付けてもらえた気がする。

友達と話す時はどうだっただろう。


僕は相手の主張とぶつかるのが嫌だったため、譲歩することが多かったように思える。
それがきっかけで喧嘩になることも仲違いすることも避けたかったので、自分の意見は極力ボリュームを落として、相手の意見に耳を傾けるようにした。

今になって思うと、譲歩スキルはあの頃から備わっていた気もするし、それは「消極的」という性格に分類される人のほとんどが持っているスキルだろう。

更に言うのであれば、「めんどくさがり」「飽きっぽい」「粘り弱い」人にも当てはまるスキルではないかと個人的には思っている。そしてその全てに該当している僕は圧倒的な譲歩スキルを披露していたのではないだろうか。

大人になってからはどうだろう。


より一層の譲歩が求められる社会。度重なる譲歩で生まれる仕事。積もる意見の先にある譲歩という決断。

そうやって世界は動いているんだと言わんばかりに、それくらい人と人との意見が食い違うものだと教えてくれるように、すぐ譲歩する。
挨拶と同じくらい、またはそれ以上、無意識に譲歩する。

上司の顔を見れば譲歩して、取引先とメールすれば譲歩して、女性とデートすれば譲歩する。なりふり構わず、羞恥心もプライドもなく。


でも、譲歩というのは100%の意見を持っていない時に発動するスキルで、「折り合い」をつけるという何やら良さげな単語でプラスイメージに持っていくことができる。

えーと、Aランチかなあ…とか、どっちかと言えば沖縄かなあ…とか、うーん、ショートかなあ…とか、和っ、いや洋装かなあ…とか、どっちでも、いやっ男の子かなあ…とか。

これは意見を持っていないのではない。何十%かの意見と相手の意見との折衷の末、「譲歩」という大きな決断に踏み入れたのである。


これは大きな前進なのだ。
「譲歩」という歩みである。

あの頃から譲歩は仕方なくするものだと誤認識していたが、譲歩しないと進まないステージだってある。それは政治家だってスポーツ選手だってお父さんだってお母さんだって、みんなみんな譲歩を乗り越えて生きているのだ。

僕らは知らないうちに譲歩して、成長して、こうやって道のりを歩んでいる。
過去を振り返ると、そうやって発明された製品や生まれた技術、発展した会社だってあるに違いない。知らないけど。

仮にこれまでの意見に反対する人がいましたら、遠慮せずコメントください。
誠心誠意、全力で、余すことなく、一瞬で、譲歩しますので。

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