見出し画像

ひらがなみたいな愛や優しさを


「やさしさにふれて」

このテーマで文章を書こうと思ったとき、僕の中の「過去」という底の浅い記憶のバケツから何を引っ張り出そうか悩みに悩んだ。
幼少期、おとうさんおかあさん、学生時代、ともだち、会社。
こどもの頃の記憶から、大人になってからの記憶。
バケツをひっくり返して18秒ほど悩んだが、何も出てこなかった。底の浅いバケツの記憶量などたかが知れている。
あかちゃんとのふれあい、おじいちゃんおばあちゃんのぬくもり、障害者のかぞくとのほっこり…エピソードなど僕には持ち合わせていないから、そもそも悩むだけ無駄なのである。

優しさにはいくつかの種類があるが、自分自身が触れた優しさがありすぎて、ひとつに絞るのは難しい。ましてや、それを優しさ認定するのもおこがましい。
ひとつひとつの優しさはちっぽけなもので、相手はそれを優しさとも思っていない可能性だってある。
おそらく、受け手次第で優しさは変化する。送り手の何気ない一言がストレートな優しさだったりするし、優しくかけたつもりの言葉が変化球で刺さらないこともある。
僕のキャッチャーミットにはズバズバ優しさストライクが入ってくるので、優しさのストライクゾーンが広いのだと思う。
こんな人間が「やさしさにふれて」と弱っちいエピソードを披露しても、そんなの読者に優しくない。

反対に自分主導の優しさをテーマに書こうと思ったが、優しさ自慢と不幸自慢がこの世で一番寒いと思ったのでやめておいた。
自分の優しさは「やさしいね」って言われたい承認欲求からくるものなので、一言でいうと不純なのだ。
「他人の目を気にする」「八方美人」「やさしいねって言われたい」
このスリーカードが揃っている人とは仲良くなれそうである。
ちなみに、カードが三枚揃うと「承認欲求モンスター」になる。

話が脱線したが、じゃあ何を書こうか。本当に思い付かない。
最初はエピソード詐欺しようかとも思った。
優しさに全振りしたエピソードをでっち上げて、さもノンフィクションかのように感動を誘おうと思った。
0を100にしたエピソードをエッセイにジャンル分けしてしまおうかと思った。
でも、もし反響があって、いいねがたくさんきて、コメントなどきた日には、それこそ優しさに触れてというか、心のやわらかい部分に触れられてしまいそうで怖いので踏み止まった。
多少の理性とちいさな罪悪感を持ち合わせてよかったと実感している。

さて、過去に栄光の優しさが存在せず、今もひとりぼっちで誰かの優しさに触れているわけでもなく、捏造もできない僕の前には文章しか残されていない。

小説を書くときひらがなと漢字をどう使い分けるかで非常に悩む。
これは全ての書き手の方に共通する悩みだと思っている。
たくさんの小説を読んでも作家によって使い分けは様々で、「それひらがなにするんだ」とか「これなんで漢字じゃないんだろ」とか意識して読むようになった。
もちろんひらがな、漢字の使い分けに正解など存在せず、作家の個性であったり、作品の雰囲気であったり、登場人物の年齢であったり、場面場面のニュアンスであったり、意味があるものもそうでないものも混濁して使い分け作業が行われている。

そんな風だから、僕も書くときに「どっちにすればいいんだろ」とひらがなと漢字を行ったり来たりしている。
漢字が多い方が賢そうに見えるから漢字にしたいし、とはいえひらがなの方が読みやすいからひらがなにしたいし。
昔と違って書くわけではなく変換キーの一発で迷える分、より漢字・ひらがなの二択論争に拍車がかかる。
早く統一しないと僕みたいな優柔不断人間は一生文章を書き終えられない。
これは漢字、これはひらがな、と政府に決めてもらいたい。それに則ることで誰もがしあわせになれるだろう。

と、ここまで読んでいただいて、何が言いたかったかというと、ひらがなの持つなんとなくの優しさについてである。

「おとうさんおかあさん」は「お父さんお母さん」よりもなんとなく愛情がこもっていて、
「ともだち」は「友達」よりもなんとなくあどけなさが残っていて、
「こども」は「子供」よりもなんとなく幼さが入っていて、
「あかちゃん」は「赤ちゃん」よりもなんとなく無邪気さが漂っていて、
「おじいちゃんおばあちゃん」は「お爺ちゃんお婆ちゃん」よりもなんとなく親しみが伝わってきて、
「かぞく」は「家族」よりもなんとなく優しさに触れている。

「ふれあい」は「触れ合い」より…
「ぬくもり」は「温もり」より…
「ひとつ」は「一つ」より…
「やわらかい」は「柔らかい」より…
「ちいさな」は「小さな」より…
「ひとり」は「一人」より…
「しあわせ」は「幸せ」より…

その言葉が持つ本来の意味をどう捉えるか、人によって、場面によって違うだろう。
目に入ったその言葉をどう解釈するか、そしてその文字のイメージが優しいかどうか。
それこそ優しさの送り手(=書き手)と受け手(=読み手)でズレが生じることもあるかもしれない。
なんとも思ってない優しさが、読む人にとっては優しく感じられることもあるかもしれない。
優しさの共通認識なんてものはないのだから。


だから優しさストライクゾーンが広い方が感情が揺さぶられる。ひらがなの丸みを帯びたイメージが優しいと思えれば、その優しさに触れて文章を味わえる感受性も広がるのではないだろうか。
つまり、何が言いたかったかというと、LINEの名前をひらがなにしている人はあざといなあ、ということである。


本気で賞を狙いにいったつもりなのに、結局こういう文章になってしまって悔しい。
(タイトルはいい感じだったのに。。)
でも、本音をさらけ出して、本性を丸裸にして、それをいいと思ってくれる人がnoteには少なからずいてくれることが、自分にとってかけがえのない「やさしさにふれて」なのである。
脱線脱線の繰り返しで、思わぬ着地点に辿り着いたが、改めて自分の居場所の心地よさを再確認した次第である。

最後に、あえて「優しさ」と「触れて」を漢字で表記していたのは、今回のテーマである「やさしさにふれて」の優しさを際立たせたかったからである。
「やさしさにふれて」は「優しさに触れて」より、愛情、あどけなさ、幼さ、無邪気さ、親しみ、優しさ…
こんな言葉だけじゃ言い表せないくらい、たくさんの意味や想像力を含んだ大きな器のような、そんなテーマだった気がする。
ただ、なんとなく、だけれども。



※タイトル「ひらがなみたいな愛や優しさを」は僕の大好きなバンド10-FEETの「ヒトリセカイ」の歌詞の一節です。興味のある方はぜひ、聴いてみてください。

この記事が参加している募集

もし、私の文章に興味を持っていただけたら、サポートお願いいたします。いただいたサポートは活動費として大切に使わせていただきます。よろしくお願いいたします。