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心と言葉

心は動く。動かされる。心にはどうやら、今いる場所というものがあってそこから別の場所に動くことがあるようだ。そこには、物理的世界とは別の空間が私たちには見えていて、その中で動く心を言葉は眺めている。

実際に心というものが、どこかにあるのかは知らないが言葉の感覚では心は動くものであると知っている。動くと言っても様々な動きがある。単純に感動することは「心が動く」と表現する。また、次々と意識するものが変わっていく様子を「心が移る」とも表現する。嬉しい時には、「心が弾む」。

辞書を引いてみると、そうした心の動きに関する表現がたくさん出てくる。おそらく心が見えないからこそ、その動きが多く言葉にされてきたのだろう。心には物理的な存在はないが、確かに私たちの中にあるものである。そうしたものを表現するためにはやはり、言葉を使うしかない。

だから、心には独特の身体感覚がある。心の感覚はそのまま、言葉の感覚と言ってもいい。心という見えないものは、言葉によって初めて動くことができる。感じることができる。逆に、言葉があるから心は見えるようになってくる。心と言葉はお互いに強く結びついている。心が言葉を求め、言葉が心を求めている。

心は感情というものの根源だが、感情というものはどこにあるのだろう。どうやって存在しているのだろう。心に何らかの作用が働いて、「さみしい」気持ちになる。さて、その寂しさはどこにあるのか。どうやって在ると言えるのか。さみしい気持ちが「さみしい」言葉を引き寄せて、やがて口をついて発される。その時、「さみしい」と発したことが心が動いたことの確かな証拠になる。

もやもやと、言葉もなく考え事をしていることがある。また、何も言えないまま心の中で思いが動いていることもある。言葉を見つける前には心の動きを感じている。心が動いて、言葉が生まれる。

言葉に動かされる心もある。言葉にすることで、やっと心が居場所を見つけたように穏やかになっていく。心と言葉のやり取りをして私たちは心地よい場所を探している。

心が動く。とは受動的な感覚である。心は思ったように動かすことが難しいものである。手や足のように、自分の意志にしたがって動くものではない。体のどこにあるのか分からないのに、なぜかここにある。自分では動かすことが難しいものだ。

だから心に対する姿勢は自ずと受動的になる。自分の中にあって、思い通りにならないものが心である。私たちは望んで「さみしい」気持ちになるのではなく、さみしいと思わされている。

思い通りにならない心をどうにかして、フラフラと体がさまよう時もある。居心地の良い場所を探して、あちこちに行ってみる。どこに行けば心が落ち着くのか、分からない。あてもなく人は旅をしたり、散歩をしたりする。

それに比べて、周りの人や環境や出来事はよく心を動かす。自分のことよりも、自分以外のことで心は動かされる。

自分が望んだように心を動かすことができたら良いが、それは初めから難しいことだ。心と、自分にとって幸せなのは思い通りにならない心のあり方に満足できることだろう。日々、動かされ移り変わる自分の心を、それでも良いと受け入れられることだろう。

居心地の良さとは、単なる気持ちの良さではないだろう。単純においしいものを食べたりすれば体は喜ぶ。しかし、心を喜ばせるためにはどうすれば良いか。楽しいことをすればいいわけでもなさそうだ。楽しくても、心が受け入れられないような後ろめたい楽しさもある。むしろ、無理やり楽しいことをしようとするとそうなることが多い。だから、心地の良さとは調和の中にある。自分と、心、そして体がお互いに認め合わなくては心地が良くない。そして、どれも思い通りにならないことが多いから、ぴったり一致するのは幸せなことである。

少なくとも、言葉は心の居場所を教えてくれる。言葉にすることで、どこにあるか分からない心を知ることができる。だから、「さみしい」ことはさみしいのだが、それで心の居場所はわかる。辛いのは、自分の心に対して言葉が見つからないことである。言葉がないと、心に対して自分の態度を決めることができない。さみしい時には、ちゃんと「さみしい」と言わなくてはならない。さみしいことはいけないことではないのだ。

自分の心を受け入れることは、その人にしかできない。心は、身体と同じでその人自身のものである。だから、ある感情に対して心地が良いか悪いかを決めるのはその人しかいない。

言葉を探す、ということは心を探すということである。自分の心は今どこにあるのか。動き回る心を追いかけるように言葉を連ねていく。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!