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『会社』という舞台



一歩、会社に足を踏み入れると演技が始まる。


月曜日の朝、「おはようございます」が、その合図。
日曜日から緊張して眠れなかったが、この日がまたやってきた。
一週間の始まり。元気を出さなければ。
今日から五日間公演の、『会社』という舞台の幕が上がる。

引き締めた顔。張り上げた声。

それは、月曜日の朝からはりきる若手社員を演じる僕だ。
「おはようございます」なんて本当は言いたくないけれど、自然と作り上げた役柄に、自然と台詞が放たれる。
僕の台詞に、自然と返す上司や後輩。
今日も物静かな上司役と馴れ馴れしい後輩役を演じてくれるだろう。
稽古はいらない。台本もない。読み合わせもしていない。
お互いが信頼して、アドリブで続ける。

「お世話になっております」

「かしこまりました」

「申し訳ございません」

本当は微塵も思ってもいないけれど、仕事のできそうな社員を一生懸命演じきる。
何年かの練習で、それっぽい社員の役柄が板についてきた。
新入社員を経て、若手社員という役柄。
これを越えると、中堅社員、中間管理職と役が変化していくのだろうか。
まだわからない。突如として幕が下りる可能性もある。
今はただ、キャリアアップに精を出す若手を演じるしかない。

作り上げた声。愛想笑い。
心のない言葉。無理をした態度。

仮面をつけた僕の、下手な芝居。
自分の声が、全然自分に響いてこない。
反響もしていない。ちゃんと届いているのか。発声が足りないのかもしれない。
ただ、綺麗に並べられた台詞だけが耳に入って抜けていく。
不要な感情が入ってしまいそうだ。
何も考えず演じればいいだけなのに。


本当は鼻くそをほじりながら、適当に生きたかった。
「めんどくさい」とか言って人生を舐めてかかりたかった。
それなりの人生で、それなりの幸せを掴んで、醜い部分をひとつも晒したくなかった。
そんな役を貰いたかった。
そんな演技が、したかった。



それができなかった僕は、一人で苦しんでいる僕を演じ続けている。
一人でもがいている僕になりきっている。
この役は、涙を流す演技を必要とする。

そこに、愛はない。
助けてくれる人もいない。
誰も見ていない。

ただ一人、ひとり芝居を続ける。
観客は誰もいない。
僕はただ、誰にも知られずに演技をしている。
流した涙でさえ、本物かどうかはわからない。
頬に伝わる温度は冷たく、演技が難しくなる。ハンカチを取り出し、顔に当てる。


まだ、誰も見ていない。

ナレーションはない。テロップも出ない。エンディングもかからない。
そろそろ時間のはずなのに。明日の予告をしなければ。
終業時刻になり、チャイムが鳴る。
涙が乾く。視界に映る景色は、いつもどおり。
それぞれがパソコンの前に座り、キーボードを叩く演技をしている。
カタカタと音が響く社内。歓声も、拍手も鳴らない。まだ、幕は下りない。
いつもこうだ。演技は終わらない。

「残業」という名のアンコールが、今日も始まろうとしている。





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