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読み手に告ぐ。勝手に解釈してくれ。


文章の書き方にはありとあらゆる技法が存在して、本当に勘弁してほしい。

丁寧に細部まで描写した文章の方が誠実さが伝わると言う人がいれば、可能な限り無駄を削ぎ落とした文章の方が美しいと言う人もいる。
文章はリズムが命!と叫ぶ人がいれば、文章は書き出しで全てが決まる!と豪語する人もいる。
起承転結を基本としなさいと諭す人がいれば、起承転結のルールなんて無視しなさいと覆す人もいる。

要は、なんだっていいのだ。

本屋のビジネス書コーナーに行けば、文章の書き方についての本が山ほど置いてある。
ライターやコラムニスト、コピーライターといった言葉のプロが書く本は、首が取れるほど頷ける内容で溢れている。
だって、職業名がもう、「文章書けそう感」が漂っているんですもん。その肩書きの文章を飛車角王手で出されたら、何も文句は言えません。
どんなに駄文だったとしても、最後に「文・糸井重里」と締められていたら、「あ〜深いわあ」と掌返すだろう。
ネームバリューの偉大さを改めて実感し、このことを「みつを」効果と呼ぶことにする。

僕も文章に関する本は何冊も読んだが、「おっしゃる通り…!」とありったけの敬意と共感を込めて書を閉じた。
そして、それらの本で参考にしていることは、ほとんどない。
いや、ないと言ったら嘘になるが、あまり意識したことはないのだ。
それらの読書の蓄積で無意識に使用する表現はあるのかもしれないが、「本に書いてあったことを意識して書こう」と意気込んで筆を持ったことは一度もない。全部自己流で、思ったことを書いているだけなのだから。
こんなことをほざいて、この文章が「誰々の本の第一章に書かれてるノウハウが全部詰まってますよ」とか指摘されたら相当恥ずかしい。もはやその人の大・隠れファンであり、一番のメンターであると言えよう。


もはや文章におけるルールなど、あってないようなものだと勝手に決めつけている。
そして、そのルールに捉われないことこそが、「ふむ」と思われる第一歩であると思う。

音楽やファッションも同様である。
リズムを外した方が玄人に聴こえたり、音程を外した方が胸に響いたり。
上下を柄柄にした方が最先端だったり、ジャケットにジャージが渋かったり。

ものは言いようなのだ。

評論家みたいな人が、それっぽい雰囲気で解釈してくれて、それっぽい論調で広めてくれる。
当人はそこまで意識していなかったかもしれない。そこまで深く考えてなかったかもしれない。
でも、そう思わせただけで勝ちなのだ。
 

僕も文章を書いていて、たまに感想をいただく。
その中には「そう解釈してくれたのか」「そこで感動したのか」と僕の意図とは違う意見もある。

そんなとき、心から思う。
皆様の解釈の方が素晴らしい、もう勝手に解釈してくれ、と。

僕の想像を遥かに超えて情景を思い浮かべてくれたり、一つの表現に対して「ここって、もう一つ意味が含まれてるよね?」と深読みしてくれたり。

すみません、何も考えていません。

気付いたら、なんか、いい感じになってて、結果良くなっただけです。
それなのに、「そうなんですよ~、○○さんなら気付いてくれると思ってましたあ」と何食わぬ顔で言って、すみません。
全て後付けです。全てのパーツを買い揃え、使用後に人から言われて、「あ、これも付けとこ」と最後にちょこんと添えた感じです。

ただ、そう思わせたのは、なんだかんだ、僕の文章にそことなく何かを感じさせるものがあったからだと、恐縮ながら思っている。
読み手の想像力と解釈力があるからこそ、僕も思いっきり文章が書けるのかもしれない。この文章を「スキ」と言ってくれるからこそ、それっぽい文章としてお見せできているのかもしれない。
これが評価されなければ、僕はふて寝する。

 
最後に、タイトルが偉そうですみません。
本当は「読み手の皆様に一つだけ、ご勝手に解釈してくださいませ」くらいの気持ちである。
タイトルの付け方も何かからインスパイアされたのかもしれないが、覚えていない。


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