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#8 『学ぶ知識』『教える知識』の価値の不等価

2022年11月某日

とあるまちづくりの会合に参加した。人口減少に歯止めをかけるために、エリアが一体となり、どんな戦略をたてたらよいか、知恵を出し合おうという趣旨のものである。参加者の年齢は様々であった。事務方の対応からすると、暗黙的なヒエラルキー構造があるようにも感じた。

意見交換野中で、とある『有識者』が突然、『SWOT分析』だの、『5フォース分析』だの、マーケティングフレームワークについて解説を始めた。私を含めた他の参加者はポカンとしてしまい、少々気まずい時間と空間ができあがった。(用語の意味がわからないのではなく、なぜ今その話になったのかが理解できなかった)。しかし、当人は、戦略策定にはこれが必要なのだ、と饒舌を止めようとしなかった。

思うに、『学ぶこと』と『教えること』が等価でない類の知識がある。この例では、マーケティングの知識をインプットする心意気は素敵なことなのである。たとえ、コンビニの新書コーナーで買った本をナナメ読みした程度のものであっても。しかし、だからといって、その知識を他社に『強制的に教える』ことは少々品がない。そもそも、『その知識を他者は知らない』ということを前提に、謎のレクチャーにより時間を浪費することは、暴力的である。皆、あなたよりは詳しいのである、という可能性に頭がわからないと、客観的な視点や大局観が備わっているとは言い難く、資質に問題がある。

そのような思慮の浅い人物にとって気の毒なこととして、心の中で『賢いと思われたい』という承認欲求に飢えている。しかし、誰も、知識と思慮の浅い人物を『賢い』とは評価できないのである。そして、その『知識と思慮の浅さ』を自ら喧伝するという悲しい構造となっている。嗚呼、そのような悲劇を再生産しないためにも、会議は年齢も立場も隠して、アバターで実施したほうが平和的かもしれない。『それ、何の話してはるんですか?』と気兼ねなくツッコめる社会の実現を期待したい。

ほなら。

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