喫煙席

私は昔から喫煙者である。愛煙家とも言えるかもしれない。

3年くらい前まではファミレスの喫煙席で仕事をしていた。

でも喫煙席は改正健康増進法だかなんだかでなくなってしまった。2020年の4月くらいからかな。

コロナ禍ということもあり、自宅に防音室を買って、そこにちょっと良い感じの空気清浄機を置いて仕事場にした。

なかなか狭いもんだし外に出る事もないものだから仕事も捗らないので、近くの小さな喫煙目的店的なカフェにラップトップを持ち込み仕事をして。飽きたら家に帰ってきて仕事をするみたいな毎日を送っている。

だけど最近なんだか昔が懐かしくなって、昔は良かったとか思うようになっている。

コロナ禍に突入する前はどこで仕事していたのかと思い出したりもしちゃう。

友達はカラ鉄のカラ鉄ホーダイみたいなのを契約して仕事をしていたし、私はガストかデニーズか、サンマルクかココスかサイゼリヤか、グラッチェか。グラッチェはなんか通りに面した店舗が多かった気がする。何年か前の首都圏での大雪の時にグラッチェの喫煙席で煙草の煙を燻らせながら雪が降るのをずっと眺めていたのが良い思い出である。またそんな思い出を作ろうとしても喫煙席なんかないし、その思い出のレシピは使い物にならなくなった。まぁだいぶ悲しい。

音楽スタジオを利用する事もやっぱりまだまだ多いんだけど、ミーティングスペースというかロビーも完全に禁煙になってしまった。
昔はリハーサルの後とか何時間でも煙草を吸いながら哲学を議論したものだった。まぁ今となってはここ煙草吸って大丈夫だよね?みたいなところを探して、外だったりすると季節の影響を直接的に受けるものだから、冬だったら寒いし春だったら花粉だし夏だったら暑いし秋だったら、秋なら良いかもしれん。つまり秋以外は寒いし帰ろうとかなる。

東京ってなかなか広いもので、友達に会いに行くのに電車を使ったりする。会いに行ってもそこにゆっくり喫煙出来るお店がなければ互いのどちらかの家に行った方が良かったりする。でも家は賃貸なので禁煙だったりする。

徳川夢声さんの”話術”のような環境にあり付けるのが凄く大変である。

だから友達を家に呼ぼうとするんだけど、私の家は駅から遠いもので一緒に酔っ払って遊んだら、送ってあげられないので帰りにタクシー代を払ってもらうことになる。

払ってあげても良いけど、スマホでなんでも出来てフィジカル的に関節が少ないものばかりが溢れているご時世ではタクシーを呼んでタクシー代を払うのはちょっと面倒に感じたりもする。
しかも互いの家の中間地点ではないから2年ちょっと前までは30分で設定出来た環境が今や、1時間はかかると言ったところか。

兎にも角にも家はお店じゃないからなのか、煙草を吸いながらなんでも出来る。仕事も出来るし、料理も出来る。お酒を飲んだり映画を観たり。本を読んだり、立ったり座ったり。非常に自由だ。

家庭を持つとそうは行かなくなると思う。自分の家の外は相当不自由な現代。なので家庭は持ちたくなくなるだろう。これは自分の価値観を押し通すと守りが減る部分になってしまったからだろうか。まだちょっとわからない。家庭を持つと何故か内も外も喫煙者は自分の居場所が見つからなくなってしまうのは関わる人間が増えて、関わる人間が自分を含めて3人になると仮定すると、私が喫煙者だとしたら残り2人は喫煙者じゃないからもう多勢に無勢の構図が出来上がるからだろうか。

年間15000人が受動喫煙で亡くなってるというけど、どのくらいの量の副流煙なのか調べてもデータがないんだけど、15000人のデータは全体何を基準にしたものなのだろうか。15000人はけっこう多いかもしれない。たぶんコロナで死んでる人より多いか同じくらいだと思う。
私の友達のお母さんはコロナに罹って1週間で死んでしまった。まだ60歳手前だったと言っていた。友達が働いているお店のマスターはコロナに罹って入院して3日で死んでしまった。友達がビルの掃除の仕事をしているんだけど、そこで毎日顔を合わせる守衛さんもコロナで死んでしまった。

私は喫煙が原因で死んでしまった人にはまだ会ったことがない。

15000人て誰がどこで調べたのか。自分は嘘偽りなく世の中を見ていたい。こんな嘘だか本当だかわからない部分に振り回されたくないのである。

3月から仕事で神田に通っているんだけど、あそこの街はもう何が何だか散らかり放題散らかっている。公共の喫煙所みたいなのもあるんだけど、掘立小屋みたいな感じで中はぎゅうぎゅうで喫煙禁煙関係なく病気になりそうな環境である。そんなの本能的に感じるとも言い難いくらい明白だし。密度が高過ぎて家の中で焚き火したような状態になってしまっている。あんな所に入って行ったら誰もが体に悪いと感じるだろう。なので別の場所で喫煙しようと探すが路上喫煙は禁止だし、屋内も禁煙。なかなか見つからないので人通りの少ない路地裏に流れ着く。こうなるとルール違反しているようだけど、自分の時間や健康を多角的な角度から守っているとも言える。
喫煙所で喫煙している人と、路地裏でポイ捨てしている人の健康やら幸福の度合いなんて数値化するまでもなく分かる話である。

ルールに縛られて長生きするのと、自分の価値観を大事にして一週間後死ぬんだとしたら、後者を選ぶけど。長生きしても死ぬところから一週間前の心情を割り出せば別にその価値観は手に入りそうでもある。

そうなると結局こんな喫煙所だとか嫌煙家だとかルールだとかまやかしに過ぎないし、自分は一週間後死ぬんだから関係ないし本気で幸せ探した結果だとなる。なので自分と関わりがない人はノイズになってしまう。ノイズだったから関わらずに生きて来たのか、関わりがないものはノイズと認定してしまうのかはわからんが、自分の幸せを奪う敵の誕生である。

最近よく自分の国を持ちたくなるような衝動に駆られるんだけど、これは間違いなく私の幸せを日本が奪っていっていると感じるからである。

自分には今より生きやすいと思っていた過去がある。そのままでよかった。そのままの国があったら移住しちゃうなと思う。3年くらい前まではそんな国ないから日本はいい国だなと思っていた。

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