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火曜日の哲学対話 人はなぜ「表現」をするのか?

今回は、11名の参加者と共に哲学対話を行いました。

参加者に問いを出してもらい、投票の結果、テーマは、「人はなぜ『表現』をするのか」に決まりました。


人はなぜ「表現」をするのか?
問いの背景

このお店はいろんなアーティストが集まる。表現に関わる人が来ていると思った。やらない理由は多いはずなのになぜ表現をするのか気になった。
仕事ならわかるが、お金にならなかったり、無償であったり、頼まれてもいないのにやる人がいる。自分よりも、もっと上手な人がいるとわかっていても表現しようとする。それは、なぜだろう?


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表現する理由

・小説を書いていて、それが死ぬほど楽しい!書きたい言葉、モヤッとしていることが、話の最後に消化される。自分で書いていて「名作だ!!」と思う。

・相手に見てもらう。自分が表現することで、自分を探しに行ける。


「表現」は、他者とのコミュニケーションか?

・「表現」とは作品を作ることだったり、何か特別なことだと思われているような気がする。そもそもアーティストしか表現していないのか?みんながコミュニケーションとして、日常的に表現している。

・「表現」は、動物的承認欲求ではないか?他の動物も求愛のために表現する。服を選んだり、ネイルをしたりすることも、また、表現だと思う。


・表現をしないこと=内に閉まっておくことは表現ではない。表現することはコミュニケーションではないか?

・作品を作ることもコミュニケーションも根底は同じで、漏れ出たものが創作になるのではないか?自分はお話を作っているが、メッセージを言葉にするだけでも伝わりそうだが、それだけでは伝わらないとも思っているから作る。


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「表現」は、自己との対話か?

・表現は「知への探求」ではないか?表現-評価の繰り返しで知を探求していく。人は、「常識」になったときには、表現しなくなる。一方で、「表現」は、基本的には、コミュニケーションであるとも言える。


・何かを作ることで自分とは何なのかがわかる感じがする。自分を探すために行っている?


・小説を書いているが、他人の評価や、お金や賞がもらえなくても楽しい。書いていてよかったと感じる。


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無意識的表現と意識的表現
(意識の有無によって「表現」の意味を分けるべきか)

・作品は、明確に自分から相手へという意識があると思う。一方で、例えば仕事中に、聞かれた事に対して、答えなければならないということは、日常的に必要に迫られておこなっている。新しく何かを生み出すことと、社会生活上必要に迫られて生じるコミュニケーションを、同じ「表現」として考えていいのだろうか。

・無意識にやっていることは、感情表現。無意識的表現と意識的表現があると思う。無意識的表現を意識的表現にすることが「表現」ではないか。(ママ)

・根底は「自分とは何か」を表すものだと思う。「表現」について(コミュニケーションと新しく何かを生み出すことを)区分けする必要はないと思う。

・服を着ることや、SNSで「いいね」することも表現と言える。分けなくていいと思う。


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服を選ぶことは、「表現」か?


・服を着るときには、全体のコーディネートを考えなければならない。服を着るのは自分という創作物を作っている。創作と表現は同じようなもの。

・服を着るのは相手ありきではないか。相手に対して(自分を)表現している?

・相手の格好に合わせて自分のファッションを決めるわけではない(から自分対象だ)。

・人前でしたい格好と一人の時にしたい格好は、別にある。自分との対話もあって(他者との対話もあって)両方あるのではないか。

・表現は、相手ありきなのか?自分は、寒いからジャケットを着てるだけで、特に何も表現してるつもりはない。

「表現」するためには、他者の存在を必要とするか?
(自分以外に人類がいなかったら?)

・自分以外に人類がいないときに創作者は創作をするだろうか?

・自分は書くだろうという気がした。書いている時、「自分だ」と思う。書けたとき、自分だったと感じる。自分を認め、自分を少し好きになれる瞬間。自分が自分であることが、感じられる。

・人類が誰もいなくなったら、文字や言語もなくなるので、創作なんてできないのではないか。


・絵を描くのは、自分が描かざるを得ない状態になるから。「表現」と「作品」は、違う。赤ちゃんが笑うのも泣くのも表現。他者が居ようが、居まいが、人間の特徴。

・(他者に)伝えたいことがあるから絵を描いたりしているのでは?無意識で書いていても、あとで自分の伝えたかったことに気付くこともある。見えないときもあるだけで、基本的には伝えたいことがあるのではないか?

・私は、そこに他者が居なくても、伝えたいことがなくても描く。食欲などの欲求に似ている。

・伝えたいことがあるから書くと最初は言ったけれども、後から分かることもある。自分の書いたものが面白いと思った時、なぜ面白いと思ったのか自分で考えてみることがある。




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表現は人間の条件か?

・(自分以外に人類がいなかったら)人が居ないと、気が狂いそうになると思う。表現できなくなったら、死ぬのではないか。表現しなくなることは、死だと思う。

・表現は、動物や植物でもしているが、彼らは「作品」は作らない。「表現」とは、プリミティブ(原始的)なもの。

・植物人間は、表現していると言えるのか? 瞬きで表現していると言うのであれば、その瞬きは、何を表現しているのか?

・脳死の場合は表現できないのでは? どこからが死んでいて、どこからが生きているのかと言う話題になりそうだ。

・障害を持った子供たちと接したとき、私はその子たちの表現がわからなかったが、いつも一緒にいる先生たちは「興奮している」などわかると言っていた。呼吸の息づかいや触れた時の体温などでも、表現しているのかもしれない。

・表現できないと死ぬのではないか、と思うことがある。「生きること」と「表現」は、ハッピーセット!

※ハッピーセットとは、マクドナルドの子供向けのセットメニューのことである。



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創作の条件と表現の条件

・(店内のホワイトボードに残されていたマズローの欲求の階段を見て)人間は、生理的欲求や、安全の欲求が満たされていないと、「創作」しないのではないか。表現については、動物的なものだと言っていいと思う。

・そもそもマズローの説自体にさまざまな批判がある。生理的欲求がなくても、自己実現の欲求はあるのでは?

・自分は、安全の欲求が脅かされた方が、クリエイティブになれる。生きていくためのどうするか考えることはクリエイティブなこと。

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「創作」と「表現」と「作品」は別物か?

・「表現」は例えば、くしゃみや鼻水と同じ。衝動であり、原始的であり、動物的なもの。突き動かされるように描き、夢中になっていて、せずにはいられない。時々、「降りてきた」という言い方をする人もいると思う。手を動かすだけでも表現。それに対して、理性的で頭を使うことが、創作活動だと思う。

・話したいとか、コミュニケーションを取りたいという欲求は、湧き上がってくる。誰かと話したい、という衝動と小説を書きたい、という衝動は似ている。「表現」と「創作」は同じかな?

・特別な人だけが表現できる、というのは違うと思う。「作品」を作れる人を持ち上げすぎだと思う。それは、もっと動物的なものだから。

・理性的な創作も動物的な衝動の結果現れたものも、両方とも「表現」と言えるのではないか?

・アートとしての表現と衝動としての表現があるのではないか?

・衝動が、人間というフィルター(知識、文化など)を通すと作品(創作物)になるのではないか?

・お金にするためには、頭を使わなければならないと思う。(だから、原始的なものではない。)

・創作はあくまで副産物ではないか?

・創作は、自分の作り上げたい意志を持って創り上げる。作品は、人の評価を必要とする。例えば、お金を払う人がいなければ、作品ではない。

・最初は衝動かも。でもその後に「自分」が対象化されて、もう一人の「自分」という他者と会話しているとすると理性的と言える。

・時間的に「自分との対話」→「外に出る」→「他者に評価される」とするとどこから「表現」と言えるだろうか?

・自分の中にあるうちは表現とは言えないと思う。涙が出たら表現と言えると思う。物質的に表れているから。でも、心臓がドキドキしたらそれは表現だろうか?

・「表現」にも「マズローの欲求のピラミッド」のような、ランクがあるのかもしれない。


・本当に、ランクなんだろうか? 自己との対話によって何か気付かされた時に、表現になると思う。あるいは、他者によって評価されることによってかもしれないが、何かしら「新しい発見」を含んでいると思う。表現は、知への探求だと思うから。

・あやふやなものや感情を形にしたい、というのが表現の根源じゃないか?

・植物は、表現はするけれど、「作品」はつくらない。

・誰かの心電図を見た人が、「なんて美しい線を描くのだろう」と思ったなら、寝たきりの人は、意図して表現しているつもりがなくても、受け取り手がいることで表現に参加しているとも言えないだろうか?

・猪熊源一郎さんが、禁煙しなくてはならず、手持ち無沙汰な時に、針金をくるくる巻いて手遊びしたものが、後に他者から「作品」として評価されている。作品には、他者の評価が必要になると思う。

・「表現」であるためには、伝達可能であることが必要ではないか。内にあるだけで誰にも伝わらなければ表現ではなくて、目に見えたり、感じたりすることができれば表現たりうるのではないか。


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表現する私とは?

・「自分の中」「自己との対話」という話が出ているが、そもそも自分は存在するのか?周りからの影響の結果しかなくて、本当は自分というものは存在していないのではないかと思うことがある。周りからの影響の結果だとしても、それは「自分だ」と思う時もある。社会が個人を作っているのか、個人が社会を作っているのか、とわからなくなる時がある。

・そうだとしたら、表現していると思っているものは、実は、ただの社会の写し鏡だということにならないだろうか?

・涙が出ることも、泣くことも笑うことも表現だという意見もあったけれど、人間としての基本的な構造としてDNA(設計図)に組み込まれていることが、表れているだけだと考えたらどうなるだろう?それでも、表現だと言えるだろうか?目が乾くから瞬きをすることは、単にプログラムされたものではないかな。

・機械的なものは表現とは言えない。バイクのエンジンがブルブル鳴ることは表現ではない。



・意思の介入があればバイクのブンブンも表現になる。暴走族とか。

・心が出たら表現ではないか?

・AIも表現する?

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感想

表現する主体である人間について、話題が展開し、AIの話が出た瞬間に、この日の哲学対話は終了しました。参加者のみなさんは、残って雑談をされていました。
この日は、内藤大将さんが写真や記録を手伝ってくださり、とても助かりました。会場の後片付けなどを手伝ってくださった方もいます。また、参加者のみなさんが、お互いに気さくに会話される様子から、対話の場は、参加者が作っているということを改めて感じました。
話しやすい場を作ることは、ファシリテーターや主催者一人の力だけではできません。哲学対話の場は、参加者も場の担い手だからです。ファシリテーターが対話の内容を無理に誘導させることもなく、多くの部分で、参加者に委ねられています。
参加者の方が、他の参加者の方に気さくに声を掛け合ったり、積極的に発言をされたり、問いかけられたり、発言の場を譲り合ったりされていました。そのことで、参加者がお互いに、発言しやすい時間にするために、知らず知らずのうちに貢献してくださっていたのではないかと思います。哲学対話の場をより良い場にしてくださったことに感謝しています。

今後の哲学対話について、手伝いを申し出てくださった人がいとことにも、心強さを感じました。今までにないことだったので、とても嬉しかったです。

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