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大村はま 教えるということ

「大村はま」という中学の国語教師の名前を今まで聞いたことがなかったのだが、この夏、菅平高原で行われたある研修会で、その人となりや生涯、仕事の内容について話をうかがう機会を得た。講演を行ったのは大村はまの教え子の一人で苅谷夏子さんという東大国文科出身の才媛で、ご主人は教育社会学者でオックスフォード大学の苅谷剛彦教授である。短い講演であったため、大村はまの業績の一旦を知るのみであったが、会場で販売されていた、「教えることの復権」(大村はま、苅谷夏子、苅谷剛彦共著 ちくま新書2003年) を後日読み、感慨を新たにする。

大村は「中学校」は、大人になるための準備をする学校であるという考えのもとに、国語教育は人と人とのコミュニュケーションの手段である言葉の力をつけることが目的である。と明快に断じていた。こころの中の気持ちを素直に言葉や文章にできることが国語力であり、どうしたらそれを身につけさせることができるのかという問題意識を生涯持ち続けた。
具体的には、教科書通りに授業を進めるのでなく、自ら探してきた題材をもとにそのテーマを深く追求させる単元学習を行いながら生徒自らが考える力を養うよう授業を行った。その中で大切なことは、生徒の自主性に任せるといった一見耳障りの良い、実は教師の怠慢に他ならない授業姿勢ではなく、生徒一人一人の特徴や個性といったものを数値化し、この子にはこういうところがあるから、それではここのところを助言すれば伸びるなど積極的に生徒に関わり、しっかりと教えてきたことにある。「静かにしなさい」と教師が生徒に言うのは教師の敗北宣言である、という大村は毎回授業にあたっては入念な準備を行い、また話す言葉は事前にテープに吹き込みチェックを行ったという。
大村の授業振りを垣間見る資料として、苅谷さんの講演時に資料として昭和46年に実際に生徒に配られていたプリントが添付されていた。大村国語教室通信と題されたもので、生徒に対してこと細かく指示事項が出ている。「使うまい、こういう言葉は」と言う欄にはいわゆる下品であったり蓮っ葉な言葉が羅列紹介されている。また間違って使いやすい、以下、以上、未満などがわかりやすく解説されていた。また同じく講演会資料であったテストの答案の解説用紙には解答の他に注意が書き添えられており、「(ケアレスミス)などは、ほんとうに注意深くしていないとせっかく育ってきた力が台無しになってしまいます」「大人にも多いのですが、作者(相手)の言わんとしているところを受け止めないで、自分の主張ばかりしている人がいます。」「1文字空ける、段変をしないなどは、もちろん減点です」など抽象的でなく具体的に教えている。

 現在上映中の「剣岳、点の記」の作者新田次郎の妻で、同じく作家の藤原ていさんはかつて諏訪高等女学校で、大村に教えを受けている。敗戦時幼い子供を連れ、満州から朝鮮半島を1年かけて引き上げてきたとき、辛酸の中で心の支えになったのは、大村先生であったという。ていさんの次男で数学者の藤原正彦さんはそのときの息子さんの一人。

 苅谷夏子さんは現在「大村はま記念国語教育の会」の事務局長をされています。大村は96歳の最後まで教師として生き続けたが、晩年は苅谷夏子さんが大村の仕事の手伝いをされていました。大村がある小学校で短い講演を行ったあと、生徒会長の女の子が気転を利かせたお礼の言葉を述べたあと、次の言葉に詰まってしまい支離滅裂になりながらもなんとか自分の話をまとめた際、会場はその雰囲気を察し静まりかえったとき、車イスの大村が司会にマイクをといい、「大変立派な挨拶でした」とその女の子を誉めたそうです。その言葉にまず担任の先生がぼろぼろ涙を流し、女の子も泣いていた。苅谷さんはその様子に大村は最後まで授業をなさっていると感動したそうです。子供には教えないとただの犬っころと変わらない。敗戦後、ガレキの中で大村が自分に誓ったことは、苅谷さんらの手により引き継がれています。

 標高1400mの高原で買ったのは「教えることの復権」ともう一冊、苅谷剛彦さんの教育改革に関する著作で、教育社会学の専門家が混迷する教育改革について明快になたを振るった本で、こちらも一気に読み終えた。先日、月島にもんじゃを食べに行った帰り道、東京駅の地下街の喫茶店にタバコを吸いに入ると、隣の席に屈強そうな若者が苅谷剛彦さんの他の著作を読んでいた。自分も暇であったので地下街には書店もあったことから、どこでその本買ったのか聞こうとしたが、読み込んであるような本であったことと、苅谷剛彦教授は東大の教授も現在兼任されているので、もしかしたら東大の学生かと思い、聞くのを止めた。文系の学者が書いた本は言葉を選ぶので読みやすい。大村が願っていた日本語という「ことば」の大切さが判っているからだ。

2009年 8月 記

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