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学生の頃から小林秀雄を読んでいます。 以前書いたものを中心に興味をもった事柄を書いてい…

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学生の頃から小林秀雄を読んでいます。 以前書いたものを中心に興味をもった事柄を書いていきます インスタやってます↓ https://www.instagram.com/tetsuyaf_1226/

最近の記事

浪漫としての徒然草

さて、この第三十二段の「月を見る女」については、光田和伸さんという国文学者が「恋の隠し方― 兼好と「徒然草」」(青草書房)という本で新説を展開しています。それはこの三十二段に出てくるある方と兼好は同一人物で、月見る女は結ばれなかった兼好の恋人だったということ。更に彼女との思い出についての記述は徒然草の他の段にそうとは気が付かれないよう散りばめて挿入しているということ。これについての歴史的理解の中での根拠も示され説得力のあるおもしろい本になっています。けれども兼好自身は何も語っ

    • 徒然草

      「九月廿日の比、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思ひ出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。 よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、

      • 大村はま 教えるということ

        「大村はま」という中学の国語教師の名前を今まで聞いたことがなかったのだが、この夏、菅平高原で行われたある研修会で、その人となりや生涯、仕事の内容について話をうかがう機会を得た。講演を行ったのは大村はまの教え子の一人で苅谷夏子さんという東大国文科出身の才媛で、ご主人は教育社会学者でオックスフォード大学の苅谷剛彦教授である。短い講演であったため、大村はまの業績の一旦を知るのみであったが、会場で販売されていた、「教えることの復権」(大村はま、苅谷夏子、苅谷剛彦共著 ちくま新書200

        • 白洲正子 「西行」より

          ~前略~ここから先は修験の山で女人禁制になっているため、私は遠慮して帰って来たが、こういう規則はいつまでも守って貰いたいと思う。男女同権を主張する人は反対するだろうが、女を入れたらろくなことはないと、女の私がいうのだから確かである。~後略」 これは白洲正子の「西行」の一節で、読後なるほど面白いと思った。 先日NHK教育テレビで白洲正子の特集を放送していたが、福井県で奈良の二月堂へ水を送る神事がありその取材した際、 やはり女人禁制であったのだが、関係者の配慮で中に入ったという場

        浪漫としての徒然草

          ガリア戦記

          坂本龍一はドビュッシューの生まれ変わりと自ら信じているのだが、その豊かな才能を駆使し取り組んだ作品は売れず、制約の中、短時間で仕上げた音楽「ラストエンペラー」「戦場のメリークリスマス」などはヒットしていると著書で語っている。 小林秀雄が昭和17年に発表した、中世古典に関する文章群の合間に、「ガリア戦記」と題した一文がある。 それによるとカエサル(シーザー)の「ガリア戦記」は兵馬倥偬の間、非常に短時間で書き上げた元老院への現地報告書に過ぎないものであったそうである。 ところが

          ガリア戦記

          小林秀雄 「無常ということ」 と古き美しいかたち

          「祇園精舎の鐘の音(こえ) 諸行無常の響きあり。紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夢のごとし。猛きものも遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」   この有名な平家物語の書き出しが多くの人を誤らせたと小林は言う。平家の作者には高邁な思想などというものはなく、無常観という当時流行の思想を言ってみただけなのである。ということは「無常ということ」の最後に出てくる有名な一節、「現代人は鎌倉時代の此処のなま女房ほど無常ということがわかっていない。常な

          小林秀雄 「無常ということ」 と古き美しいかたち

          小林秀雄の道

          8月の盛夏の日、北鎌倉駅から円覚寺を見て、東慶寺に向かう。円覚寺の堂々たる大僧堂を見た後なので、東慶寺は余計こじんまりとした印象の寺であるが、かつては尼寺であった為か小さな寺ではあるが、どことなく温かみのある、封建時代にあっては数々の女人救済を発願した威厳さと落ち着いた佇まいが今も残っている。   この東慶寺に小林秀雄の墓所がある。受付で場所を聞くと、すぐに墓所の位置図を見せてくれた。29歳の頃より鎌倉に居住した小林が晩年近くに友人の紹介で墓所を取得し、こちらを小林家累代の

          小林秀雄の道