白洲正子 「西行」より
~前略~ここから先は修験の山で女人禁制になっているため、私は遠慮して帰って来たが、こういう規則はいつまでも守って貰いたいと思う。男女同権を主張する人は反対するだろうが、女を入れたらろくなことはないと、女の私がいうのだから確かである。~後略」
これは白洲正子の「西行」の一節で、読後なるほど面白いと思った。
先日NHK教育テレビで白洲正子の特集を放送していたが、福井県で奈良の二月堂へ水を送る神事がありその取材した際、
やはり女人禁制であったのだが、関係者の配慮で中に入ったという場面があった。
それを見ていた家の者はやはり昔から女性は低く見られていたということを言っていたのだが、どうもそういうことではなさそうな気がした。
そもそも男尊女卑という考え方は明治時代以降の一部の者の考えであり、確かに権力者の多くが男性に違いはないのだが、
江戸時代から明治、大正、昭和初期までの庶民の一般家庭では「かかあ殿下」があたりまえ(現在も)。なにより怖い山の神とは「奥さん」の別称である。
そもそも男性女性どちらが上でどちらが下かということは本来ありえない話である。
男女の差は性としての区別のみ存在する。
女人禁制というのは本来の意味合いではなく実は白洲正子の指摘の通りの意味だったのかもしれない。
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