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カメラ趣味と資本主義経済~アラン・セクーラ

写真の勉強を本格的にしようと思い、手に取った本。

しかし、難解すぎて購入から4ヶ月でやっとまとめる準備段階としての散文が書けるようになった。

この本で特に気になった点は、アラン・セクーラのカメラ趣味と資本主義経済の項である。

そもそもカメラ趣味とはなぜ存在し得るのかという考察から、それが深く資本主義経済に根ざしているという我々にとって見るに耐えない現実の構造を小気味よく説明してくれている。


カメラ趣味が誕生するまでの経緯

まず産業革命以降、それまでの人間のライフスタイルは大きく変わってしまった。物質的な生活は豊かになったが、そのために生贄に捧げたのが『それまでの人間性』であったのだ。

近代資本主義経済は、工場労働がわかりやすいが労働の細分化が行われた。それまでの労働とは、農業、パン屋、鍛冶屋のように製作物即商品であり、目の前で完成された商品が交換されていくさまが理解しやすかった。

パン屋がパンを作り、それを近所のAさんに売る。

この現代から見ると非効率的かつ儲けの少ない小規模な経済がすべてであり、それも庶民は極小さい経済圏しか知る由もなかった。

またほとんどが農奴に近い農民であり、生活必需品以外の経済的な交換は貴族などのごく一部の富裕層の浪費でしかなかった。

しかし、近代になり資本主義経済がグローバル化していくと、フォードを代表とするベルトコンベア式の労働細分化された合理的なルーチンワークが蔓延るようになる。

経済合理性は凄まじく、人類がそれまで作り上げた「商品」をわずか数年で上回るような勢いは、そのまま大量消費社会という物質的な豊かさを与えてくれた。

この労働細分化・ルーチンワークは、人間性を徹底的に破壊する諸刃の剣でもある。なぜなら、自分の労働が目に見えない、認知的不協和を引き起こす。工場で流れてくる何かに何かを延々と引っ付けるような作業、完成品を見ても理解できない複雑な工程のごく一部、そんな「よくわからない」を毎日8時間(これも最近だが)延々と繰り返す。

これにより、人間の商品化が引き起こされる。我々は商品を買うために自分の労働力(というか現在では時間?)を売るのだ。すなわち我々はネジやガソリンみたいなものに落ちぶれたわけである。

そんな生活の中で、自らの労働の成果を確認するためには消費するのが手っ取り早い・・・という広告が世に溢れ、不要な需要を生産し、我々はひたすら無益な労働により無益な商品を買い、その金で広告が流され、また無益な労働が続く。

マルクスが槍玉に挙げるこの非人間性が、我々に及ぼした影響は計り知れない。僕は共産主義者ではないが、このよくわからない労働による精神破壊は非常に共感できる。なんせ人間は不要なものを買うためによくわからない労働を死ぬまで行い、環境破壊まで厭わないのだから。ああ、働きたくねえ。


カメラ趣味者の誕生と資本主義経済と消費

そんな中でアラン・セクーラが指摘するのがカメラ趣味とはなんぞやである。

セクーラ曰く、芸術活動とは「抑圧的な社会秩序の回復」だ。

人間性を否定された我々にとって、人間性=「オレはオレであり即ち生きているという感覚」が享受されない社会の中でそれを感じたければ「私的経験」を崇拝するしかない。

抑圧的な社会の中で、完全に情動的で主体的な行動こそ生の証なのだ。

週末カメラ趣味とは、要するに週末だけでも「抑圧的な社会秩序」を忘れたい悪あがきなのである。

写真を撮るという行為は、獲物を支配する力の再現であり、自己作者性という幻想を抱かせてくれる。写真は狩猟なのだ。現実をもぎ取り、それを固定する。だからこそ、被写体(モデル、鉄道、野鳥など)が必要なのだ。

この芸術活動こそ、庶民が現代社会の中で唯一自分が主人公になれるのであった。

ちなみにおわかりだろうが、これは消費者中心主義的経済であり広告により巧みに誘導されている。

そう!我々がカメラを買い漁り、レンズを並べ、ああでもないこうでもないと試行錯誤する行為こそ、仕組まれた消費なのである。※もちろん我々は自認している。


よって芸術家が庶民から羨望を受けるのは、この社会で「自己と労働の稀な統一」ができているからである。

そしてその芸術家とは、官僚主義の支配下にあり、芸術家自身も作られた広告塔なのである。記憶に新しい「100日後に死ぬワニ」などまさにそうだ。

芸術家とされる人が苦しむのは、この広告塔としての自分が認められるかにかかっている。雑誌やTVで業界人ぶっている人たちは、この広告塔=マスコット化を「仕事」だと割り切っている人たちだ。よって彼らを個人攻撃するのは間違っている。youtuberに近い。

苦しむ人というのは、若くして自殺するミュージシャンが典型であろう。アンチ資本主義な芸術家こそ、資本主義経済を回す歯車であることに気づき、正直な人間は破壊的な生活を歩むことになる。

なんせ芸術は、「抑圧的な社会秩序の回復」なのだから、反体制的でなければならない。ロックバンドが「自民党最高!」なんて言ってたら誰が聞くだろうか?

写真界でいえば、中平卓馬。この人は、このマスコット化に贖い続けた結果、病に倒れてしまった。反体制派であり続けるには、結局現代では仙人になるしかない。結局、それは自己満足でしかない。

反体制派である人が自らの作品や思想を大衆にアピールするには、マスコミの支配下に入らなければならない。そのマスコミこそ、資本主義経済の番人である。

この究極のジレンマこそ、現代における芸術を物語っているだろう。


不景気の日本では、もはや「マスコット化されている自分を受け入れているという自分」が芸術家(コメンテーター、タレント、俳優なども)メディアに溢れている。彼ら彼女らは賞味期限の短い生鮮食品として露出し、そして廃棄されていく。

写真もそうだ。SNSがメディアの頂点に立ち、写真コンテストで優勝するよりもフォロワーが1万人いる方が羨望の的となる。

セクーラの指摘は、正しかったのだ。


そして自虐的なカメラ趣味者たち

だが僕が思うに、写真・カメラ趣味者はこの経済原理を比較的自認している人達が多いように思う。

自虐的なmng、SNSで「買っちゃいました」が狭い業界内でワイワイガヤガヤするのはその典型だ。

ブルシットジョブ化された日本の労働において、もはや自虐的な消費が無益な労働により自らを傷つけていることへの隠喩なのだろうか?

この新しい消費すら、広告が入り込んでいる。かく言う僕などはこのマイノリティー経済圏を大いに楽しんでいる。去年、プラウベルマキナ67とSIGMAfpを買ったのは世界でも僕くらいだろう。エヘ♡

カメラ趣味者は満足ができない。自虐行為が労働のカンフル剤なのだから。カメラ業界は廃れているが過去の栄光はマップカメラにずらっと並んでいる。

おっと、ここでいうカメラ趣味者を単純に一元化してはならない。

・自虐的消費としてのカメラ趣味者

・週末芸術活動としてのカメラ趣味者

大別してこの2つのビックウェーブがある。もちろんこの2つの波が入り混じって、ひとりの哀れなカメラ趣味者が生まれる。割合はお好みで。

(極端な)自虐的消費としてのカメラ趣味者は、主にオーパーツと化したフィルムカメラやストーリーのあるカメラを買うことを楽しみにしている。その経緯をネットに晒したり、作例をSNSに流すことで狭い界隈で「これで晩酌がはかどりますな」とか言って欲しいのである。あ、僕です。

(極端な)週末芸術活動としてのカメラ趣味者は主戦場はSNSであり、主にエモい写真とかオールドレンズ超開放写真とか最新機材レビューとかが好き。だいたいSONYのカメラを使っている。Photoshopも扱い慣れている。動画も好き。


まあ偏見に満ちた文章で申し訳ないが、僕もどっぷりこの構成員なので許してもらいたい。

この芸術・趣味活動を単なる消費としてニヒリズムに陥るのではなく、胸を張って楽しむことこそカメラ趣味者である。

このTweetが界隈で軽くバズったのだが、確信犯的消費行動、労働へ対する憎しみ、反体制派としてのテロ行為、かつそんな環境でのんべんだらりと生きている自分への戒め、そんな複雑な思いが見事に昇華された現代シェークスピア悲劇が我々カメラ趣味者なのである!


参考文献


参考リンク

恥の多い人生を謳歌してきました

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・