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開放で撮るということ

春の花をSIGMA fp + Leica summilux-M 35mm f1.4 2ndで撮影した。
2代目ズミルックス 35mmは言わずとしれた暴れボケで有名。
F1.4開放で撮れば、滲み、フレア、ゴーストに襲われ、被写体は記号的な意味を消失する。
要するに超主観的写真を偶然でも良いので意図的に演出することができる。
今回は開放で撮ることの意味について書いてみようと思う。


①開放で撮る、それは明確な意図が存在する。

意識的に映し出したい被写体に薄〜いピント面をマニュアルフォーカスで合わせるその胸中には、すでに完成されたイメージが確かにあるのである。
故に開放で撮る人間は記録ではなく表現へとシフトチェンジを切っているのであり、表現者は単焦点レンズの前に列を成す。

②開放ボケは明確な意図という薄い世界像以外を排除する。

先程の明確な意図以外を排除するのがボケである。
滲もうが周辺光量落ちしようが、それが撮影者に宿る世界像(完成されたイメージ)に役立てば良い。
なぜならボケは「面」であるからだ。
レンズを向けた先の空間を薄くスライスすることで、写真の中に世界像を生み出す。
そこには撮影者の意図が宿る。意図は自分の中の世界観を表現しているという主張であり、自分の存在を見せつけたいという暴力的な自我が垣間見える。

パンフォーカスで撮られた写真は、世界がすでに完成されているといえる。
報道写真や風景写真が絞って撮られるのは、その環境こそが明確な意図を体現した場であり、そこにいたことが写真の完成の条件になっている。
要するに、撮影者がその場にいたことが証拠となるのである。答えはその場にあり、そこで撮影したからこそ、その写真があるのであるから。

開放で撮る写真は、明確な意図をより際立たせるための排除の論理がある。
そこには撮影者の存在ではなく、撮影行為に込めた自己承認欲求が佇むのである。
反対にパンフォーカスで撮られることが多い風景写真は、セオリーが存在する。山、滝、鉄道、絶景・・・すべてに大まかな「正解」があり、それに如何に近づけるかという技術力(と機材力)の競い合いであり、自己世界像を撮ってやろうという自己承認欲求とはまた違うベクトルである。

③開放で撮影することは、魂の解放

エゴむき出しで世界に対峙するのが開放愛好家なのである。
そしてなぜ人(注:レンズ沼住民)は、F値が低いレンズを追い求めるのか?
それは撮影という不毛で非生産的・・・というか専ら大赤字の行為に貴重な休日を費やしているのかという自らの存在理由への疑念の払拭である。
失われた30年により訪れた一億総コスパ時代において、カメラ趣味とは道楽を超えてもはや『罪』である(注:全国レンズ沼被害者家族会のテーゼ)
その罪悪感への対症療法が、自らは表現者であるという反社会的行為者宣言である。
社会は表現者を求めていない。社会が求めるのは納税と消費のみである。
表現とはフリースタイルの自我の発露であり、それは多かれ少なかれ社会という枠に嵌めたがる官僚機構の仮想敵であるのはいうまでもない。
従順ならざる表現という行為は、官僚機構の管理する範囲を逸脱しがちであるからだ。
黙って非生産的な長時間労働しながら小銭稼いで子供増やして旺盛に消費せよ!という社会からの教育により洗脳された脳髄からの開放、それこそが撮影行為であり絞りを開放する意味なのだ!

ということで、開放せよ!国民!
単調なキットレンズから卒業し、無駄にボッケボケな写真を手にせよ!
オールドレンズの技術的敗退を個性として消費せよ!
斜陽のカメラ産業は君たちを待っている。
開放せよ!国民!
F値は低ければ低いほど良いのである。


春、最近短いですよね。

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