『カメラと人』の関係について~中平卓馬の写真論と現代のカメラ
本格的な写真論を読み込んだのは初めてだったので、色々と考えさせられたのが中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』だ。
詳細はリンクを見てほしいが、中平卓馬の苦悩を今一度考えている。
ちょっと真似事をして中平卓馬が目指したであろう写真を撮ったりもした。
植物図鑑のような「あるがまま」を写した写真、没個性的な記録、それが中平卓馬が目指した写真であった。
そしてそれが最終的には写真を撮る行為すら否定する諸刃の剣となり、中平卓馬は挫折する。
だが僕はここに、「写真とはなにか」を感じるのであった。
中平卓馬が考えた写真とは、人間と自然の調和としてのあるがままの記録であった。調和という表現は微妙だが、要するに人間中心主義の批判だった。
1970年前後という時代背景が大いに影響はしているが、そこには写真表現の大きな転換点があり、中平卓馬はその中心的な位置にいたと思う。
写真表現の行き詰まり、閉塞感により前衛的なプロヴォークを生み出した中平卓馬の唐突に見える転向こそが、まさに人間中心主義批判としての行動と読み取ることができるだろう。
僕はそこに当時の写真表現の核を見るのだが、一歩引いて現代の写真表現と比べてみると大きな断絶を感じた。
それは前提条件としての『カメラと人の関係』だ。
カメラと人の関係を語る前に、60年以上前のカメラとレンズで撮ったモノクロ写真を見て欲しい。
決して高画質ではないが、主題が明確に感じるのだ。
これは現代の高スペックなデジタルカメラではまず撮れないと思った。
低画質で細部はぼやけており、主題の朽ちた木の輪郭はスッキリしない。
しかし、主題の木の明瞭さ・コントラストが現実的で、立体感・質感がしっかり描写されている。
低画質ながら、主題=撮影者の意志という情報が刻み込まれている。
現代の最新デジタルカメラは、5000万画素を超えるのもザラであり、拡大しても視覚的な破綻はない。
クロップも自在で、RAW現像は言うまでもない。
しかし、この木のような主題=撮影者の意志が撮れない。
高画質が故に、全てが扁平としているのだ。全てが写りすぎているからこそ、視点の留まる余裕がない。
フィルムカメラと人の関係は、不確定要素の多い持ちつ持たれつの「ゆるい」間柄だ。
撮影にも技術を要し、現像やプリントとなれば職人技を求められる。撮影時の天候にも大いに左右され、結果は現像してみるまでわからない。カメラとしての製品レベルにもばらつきがあり、レンズも玉石混交だ。
結局、人間はカメラに合わせなければならず、だからこそ個の意志が混入しやすい「ゆるさ」=余裕・余白がある。
最新デジタルカメラは逆に子どもでも「しっかり」写すことができる。なんせ8K動画まで撮れるのだ。
だが現代のデジタルカメラと人の関係は、「かたい」のだ。
撮影から結果までの内部工程は複雑だが操作は至ってシンプル、失敗してもRAW現像すれば良い。しかしそこには主体性はなく、カメラを持ち歩いているのではなく、カメラに歩かされているようにも思える。
デジタルカメラの高画質化は、工業製品的な技術進歩でしかなく、監視カメラや軍事衛星と同じ系統となってしまっている。
よって最新デジタルカメラで撮られた写真は、どれも似たような写真となり、だからこそ流行のRAW現像まで存在する。
カメラに使われる人間、真に工業製品化したカメラは高機能で便利だからこそ、人間を一方通行の道へ押しやり安全に歩ませる。
最先端のカメラは、「高級な写ルンです」なのだ。
これが意味するのは、最新のデジタルカメラは中平卓馬が志向した「あるがままの世界」が撮れるカメラとなったのだ。個人の意志が介在しない高画質な写真は、植物図鑑を撮るには最適な存在である。
そしてそれは写真の死を意味する。
中平卓馬や森山大道が苦悩したのは、彼らの目指す先は『撮影行為の否定』に必然的に陥るからだった。
彼らの理想は、監視カメラや軍事衛星のようなカメラであり、そこに撮影行為は存在しない。
それでだ、中平卓馬の理想とは結局どうすればよかったのか?という疑問があった。
個人の意志が介在しないあるがままの写真を撮るには?
僕が思うに、理想の究極的な姿は「Google Map」だ。
超高画質で世界を監視カメラのように写し、その中から無作為に選んだ場所を写真作品としてスライドする。
これこそ、個の解体が行き着く写真のディストピアだろう。
しかし現代アートで評価されているのは、中平卓馬が志向した個の解体された表現である。
アンドレアス・グルスキーの「ライン川 II (Rhein II)」は430万ドル(約4億3000万円)で落札された。ただ川を撮った写真だ。
金銭的価値が全てではないが、ポストモダン後の現代は中平卓馬の予言?が的中した形となっている。
だからこそ、求められるカメラは高画質化したデジタルカメラであり、個性のない家電製品のようなカメラが次々と生まれては消えていく。
フィルムカメラはNikonF3のように20年も生産され続けたモデルがあるが、デジタルカメラは5年もすれば店頭から消え、中古市場で投げ売りされている。
だが、カメラ本来の用途である記録、そして写真表現の主流からいって、このデジタルカメラこそ至高の存在だろう。
誰でも簡単に情報量の高い写真記録ができる最新デジタルカメラこそ、人々が求めていたものである。
このカメラと人の関係を考えないと、中平卓馬の苦悩はわからないだろう。
1970年前後のフィルムカメラは、高価で技術を要する選ばれた人間しか扱えないものであった。カメラが大衆化し始めた時代であるが、今のようなスマホで写真を撮る感覚とは程遠い存在であった。
技術と科学的な知識、そして経験が必要不可欠であった。カメラと人の関係は、不確定要素が多い持ちつ持たれつの関係であったからだ。
中平卓馬は、そんな時代だからこそ、写真表現に厳密なレベルを求めた。植物図鑑に載せるようなあるがままの世界を撮った写真とは、技法的な失敗を排した完璧な写真でなければならない。
プロヴォーク時代のアレ・ブレ・ボケのような技法は、個性を無理矢理生み出し、世界を人間中心主義に歪ませると批判した中平卓馬だからこそ、植物図鑑とはカメラの記録としての機能のみに自然を感じたわけだ。
写真表現技法にばかり注目されがちだが、中平卓馬はカメラと人の関係が「ゆるい」時代であったからこそ、そこに人間中心主義を感じたのではないか?
写真を生み出す技術が今より複雑であり、工業的に複製できる高画質な写真が簡単にはできなかったからこそ、そこに人間中心主義を感じたのだ。
では、僕のような敢えてこの時代にフィルムカメラを使う人間とは何か?
それは「ゆるい」「不確定要素」を「楽しむ」という『余裕』を欲しているからだと思う。
極力コストを下げ、失敗は全て無駄であり、とにかく早く。この現代社会の至上命題は、逆説的に扁平化した多様なだけの世界を生んだ。
多様性はあるが、そこに極端な違いはない。意味が不明瞭なのだ。
多様性により肥大した社会において、個人は飲み込まれてしまった。
高画質化した同じようなカメラが並び、同じような写真が拡散し、同じような消費が繰り返されるだけの日々。
これこそ、中平卓馬の求めた「ありのままの世界」だったのではないだろうか?
これは、単なる写真論ではない。
非人間中心主義のありのまま自然を「社会」にまで落とし込めば、結局現代のような多様性という名の中心のない世界が訪れる。
中平卓馬の挫折は、現代を生きる我々が感じる虚無感と同じなのではないか?
中平卓馬は自らの写真論が、撮影行為の否定=自己否定になることを認めざるを得なくなり挫折した。この過程こそ、グローバル化による世界の均質化=個人の解体と重なる。
それは70年代に政治的挫折をした中平卓馬には、まさにディストピアだっただろう。
中平卓馬は、写真を通して世界を見ていたが、それは時代を読む行為であり、だからこそ自らの写真論と同じ結果を招いたのだ。
まとめ
蛇足まみれになったが、まとめると
フィルムカメラ=ゆるい=個人
製品や技術の余白が大きく、個人の個性や意志が入りやすい。
デジタルカメラ=かたい=均質
製品や技術が淘汰により均質となり、人間の入り込む余地はない
フィルムカメラはできないことが多いが、だからこそ可能性が生まれる。
デジタルカメラはできることは多いが、だからこそ同じような結果に集約される。
中平卓馬は、フィルムカメラ時代の可能性に対する試行錯誤=人間中心主義と考えた。これは当時の自然破壊や政治問題にも繋がる。可能性が集約しきれていないからこそ、人間による破壊が可能であった。
現代は情報や技術が進歩し、グローバル化で均質かつ多様となったことで、逆に可能性は集約され、人々は中心のない社会で結局集約地に流されていく。
中平卓馬は人間中心主義を否定し可能性を狭めていったために、自己の存在の否定という矛盾にぶつかり挫折した。
これは現代社会の歩みとそっくりではなかろうか?
中平卓馬の著作に影響されて・・・
サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・