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ある男が10年越しの思いを込めてついにライカM monochromを買うまでの軌跡

初めてライカを知ったときは、「なんでオートフォーカスすらないカメラがこんな高いんや」としか思わなかった。
しかし、写真にのめり込めばのめり込むほど、嫌というほど眼前に去来するセンサーダストのような存在、それがライカである。
写真の歴史の中興の祖こそライカであり、ブレッソンを始めとした歴史上の人物と化した伝説のカメラマンたちがこぞって使い、というかそもそも35mmフルサイズの概念こそライカの恩恵だったり、日本の一眼レフカメラの隆盛の立役者でもあり、倒産しようが社名が変わろうが、ライカはたまちゃんのお父さんが憧れたようにまさにカメラの中のカメラである。
そんなライカのカメラ、レンジファインダーという絶滅危惧種に職人気質なジャーマンな質感、そして何より新品は100万を越す圧倒的ゲルマニア価格!!!
100万円出せば国産最高級カメラにレンズつけてもお釣りが来るのである。
故に、僕はライカが欲しいのは欲しいが、薄給サラリーマンの「いつかはクラウン」的なトロフィー消費物としてライカを眺めていた。
経済合理的に考えればNikonZ9を買うほうが絶対的に是である。
ライカはカメラという趣味の極点にあるアダム・スミスの示す指標であり、ライカから派生した需要と供給とブランドの三つ巴の闘争から生まれるのが価値である。
ライカとは一種の象徴であり、それ以上でも以下でもない。
ネット上で繰り広げられる信者対アンチの宗教戦争は、ライカが良くも悪くもカメラ界の価値の象徴であるという視点から見れば、不毛でしかないのだ。
なぜなら、突き詰めればカメラなど生活に不要な趣味の道具、おもちゃに過ぎないのだから。
そう、さすれば『iPhoneを買え』

10年越しのカメラ遍歴

要するにライカとはそういうカメラである。
そう思うようになったのは、カメラを嗜んで5年ほど経ってからであろうか。
恥の多いカメラ遍歴を送ってきました。
名もなきコンデジから始まり、Nikon D5000で味を占め、OLYMPUS OM-D E-M5と世界旅行を共にし、子供が生まれるという言い訳でフルサイズのNikon D750を手にした僕は「これが終わりのカメラだ」と心底思ったものだ。もちろんこれは杞憂で序曲の前の発声練習だったのは言うまでもない。
ここでおわかりだろうが、カメラにつぎ込む金額がワイマール共和国もびっくりのインフレ率でぐんぐん上がっており、20万円を超すD750ですらあのときは正気の沙汰じゃないと思いつつ、震える指でマウスをクリックしたものだ。
家庭を持ち、落ち着くかと思いきやもちろんそんなことはなく、不毛なブルシットジョブというかブルシット社会に先天的機能不全を起こしているものだから、自然と現実逃避という名のフロンティアを求めてカメラに食指が動く。
ひょんなことでフィルムカメラをもらったことが運の尽き、「そろそろフィルムカメラも使えなくなりそうだ。いつやるか?今でしょ!」とばかりになんとライカM3を手にする。
夢のライカ、しかも伝説のM3。
フィルムが終わるかもしれないという時間的切実感を言い訳に、そしてライカを諦めるために伝説を買うという一石二鳥の財布こじ開け作戦は功を奏し、ラストライカを買ったのだ。
M3は素晴らしいカメラであった。そのせいか、なぜかライカR8も買った。一眼レフカメラもセットにしなきゃね!
ちょうどこのときから写真集や写真論を買い漁り、ロラン・バルトやスーザン・ソンタグや中平卓馬の写真論を読んで「ふむふむ」と一応声に出してみたり、ロバート・フランクやスティーブン・ショアやアレック・ソスなどなど有名な写真集を見て「ほほ〜ん」と一応唸ってみたり・・・
鈴木理策と石川直樹のせいでプラウベルマキナ67も買うたった。
中判フィルムの圧倒的な描写と、圧倒的な経済的負担により、震える指で一枚一枚呼吸を止めながら撮る写真は至高であった。酸欠で意識が飛んでいるからよく見えるなんてことはないぜ!
死ぬほど散財し、もうこれで終わりかなと思っていた。
アルコールやおクスリ中毒になってもこう言うのであろう。
SIGMA fpと運命的な出会いをする。
fpは初めてデザインコンセプトに惹かれて購入した商品だ。
国産メーカーでこの哲学的思想を持ち得て、しかもそれを形にできるのはSIGMAしかいない。
そんなSIGMAのせいで、Foveonという劇薬を知る。
SIGMA dp2 merrillをもちろん購入し、自分にはピーキー過ぎて無理だよと言われている気もしたが、センサーにも沼があることを知る。
そんなSIGMAにより開発されてしまった僕は、PENTAX D645というCCDセンサーの中判デジタルカメラのフリをした鈍器を買う羽目に。
気づけば10年ほどで、用途不明のカメラだらけになってしまった防湿庫。

ライカとレンジファインダーと私

そんなわかる人が見れば「終点が玉座の間とは上出来じゃないか!」的ラインナップな恥ずかしい遍歴。
そんな中でもライカは星一徹が指し示す方向にたしかに燦然と輝いていた。
たしかにフィルムカメラであるライカM3は買った(なぜかR8もね)
M3のレンジファインダーのガラス越しに見える世界は、それはそれは美しかった。
国産カメラにない高級かつ無駄に重い質感から発するオーラは、写真を撮るという行為の最上級な体験へと引き上げる。
これが最後と小指を噛みちぎったM3との出会いではあったが、フィルムの値上がりがアウトレンジから困窮サラリーマンの財布にメガヒット炸裂なのだ(三式弾)
そんな中、レンジファインダーという体験への恋慕は募る。
レンジファインダーカメラのピント合わせはお世辞にも便利であるとは言えない。
一眼レフカメラのように覗いて見える世界が写真になるわけではなく、ファインダーを覗くと空中に白い枠が浮いておりそこに写真になるであろうモヤッとした範囲だけが示されている。
ピント合わせは中央の白いすりガラスのような小さな長方形の中に現れる二重像の合致という、使ったことがない人にはさっぱり意味がわからないであろう異質な儀式を要する。

マ二ュアルレンズでこの儀式を行うわけだから、最近の便利AFで君の瞳をずっとロックオンなんてのとは比較しようがないアナログな体験。
よってライカMで欲しい構図と完璧なピントを達成できる人は、人馬一体ならぬ人機一体といえよう。
しかし、このレンジファインダーカメラを使ってみると、それはそれは撮影が楽しい、というか撮影という行為そのものが目的になってしまうくらいの中毒性だ。
ファインダーを覗くと、世界に浮かび上がる四角い枠。
絞りを弄ろうが、シャッターボタンを押そうが、何も変わらない「実物よりもクリアに見える美しい静止した世界」がそこにある。
便利すぎるカメラが結果のためのツールとしか思えなくなる、行為主体の世界との対峙。
撮るべきものが明確な撮影者には不要と冗長の一言で済ませられるこの撮影方法は、しかしながら撮影行為自体への耽溺を異問わない人間にとってはたまらない時間なのである。
故にレンジファインダーカメラでしか撮れない写真というものも存在する。
撮影のリズムや撮影者の目や嗜好すら変えてしまうのがカメラでありレンズである。
レンジファインダーカメラを通した世界との対峙は、不便で冗長だからこそ世界との摩擦が起こる瞬間があるのだ。
ライカM誕生当時とは違い、技術的優位性はほぼ消失しているレンジファインダーカメラだが、その廃れた時代性にこそ宿る希少技術が新たな感触を我々に与えてくれるのである。
このクソ不便なシステムを背負った小さいけど無駄に重く、そして子供銀行もびっくりな価格のカメラ、それがライカなのである。

結局、紆余曲折あったカメラ遍歴で避け続けてきたデジタルライカMを手にしたくなったのはレンジファインダーと撮影行為の主体性・・・といえばかっこよいが、やはりライカを買うフェーズに入った自分とそれが今しかないという強迫観念である。
これはただ欲しいとか、SNSでドヤりたいとか、新しいカメラを買うことで諸々の動機づけにしたいとか、Foveonのフルサイズまだかなとか、そういった一つの点としての理由ではない層、いわんやフェーズなのである。

デジタルライカの誘惑

しかしデジタルライカMを欲する理由を一つ上げろと言われれば、レンジファインダーという体験を、バッテリーが続く限り無限にできるからであると答えよう
そしてそれはライカだからと言わざるを得ない。
フィルムの値上がりは所詮言い訳である。
デジタルライカを買おうと思えば、バブル時代のファッションカメラマンくらいバシャバシャ撮る人でない限りお釣りが来る。
デジタルライカは新品で100万を優に超え、10年前の中古でも50万の大台。
資本主義って怖い。あっという間に値下がりする超便利な国産ミラーレスカメラを見て、僕は超広角のため息をつく。
ライカへの欲動の還流は、歴史やブランドへの憧憬と経済的合理性の敗北という天秤である。
ライカを持つということは、一種の到達点となっていることは否めない。別に金を出せば買えるわけだから、それが偉いだとか良いというわけではなく、カメラが商品であることから生ずる必然的な「意味」である。
そういった意味を消費するためにライカを買う人もいるだろうし、大衆的消費傾向へのアンチテーゼとして敢えて買う人もいるだろうし、単に資産的価値に目を向けて買う人もいるだろう。
この乱雑なライカの持つ意味は、しかしその高すぎる価格に見合うかというと正直コスパは悪いと思う。コスパだけで見たら。
レンズはともかく、デジタルライカはいずれ使えなくなる。
よって、消費的価値だけで見ると、どれだけ言い訳を重ねてもコスパが悪いことはカメラ愛好家にしてみれば自明なのである。

だからこそ、ライカを買うことは清水の舞台から飛び降りる覚悟がいるのだ。単純に価格だけではなく、これだけの価格に見合うものではないと思いつつ手を伸ばすという、現代社会において否定される行動であるからだ。
趣味性の高いモノにどえらい大枚を叩くことは生きる上で不要であるし、マックス・ウェーバーのプロ倫の説く現代社会の現実感とはかけ離れた行為でもある。
故にライカを買う動機が宗教じみたスピリチュアルっぽくなるのは仕方がないし、歴史や蘊蓄によって塗り固めることは罪悪感への対症療法なのである。
いわばその覚悟、そこに何かを見出しているからこそ、我々はライカを買うという暴挙に出るのである。
その金があればもっと生活にとって有意義な選択ができたであろうし、家族は喜ぶだろうし、投資に回すことが善とされる現代社会。
そう、ライカを買うというのは時代に対しての意思表示でもあるのだ。
「俺は何者でもないが、ライカを自由意志で手にすることができるのだ」
ライカという選択、それは強い自己選択感、極めて資本主義的消費にも関わらずアナーキスト的自己陶酔感を生むのである。
もちろん、ライカの経営戦略はそこに生存権を見出しているのであるが。

ライカM monochromという存在

だからこそ生み出されたのが「ライカM monochrom」であろう。
白黒写真しか撮れないデジタルカメラである。
カメラに興味のない人には何を言っているのかわからないと思うが、世界は無駄に広いのである。
もし、デジタルライカを買うならmonochromと決めていた。
モノクロ専用センサーなので同じ画素数のカメラよりも云々・・・というのはどうでもよくて、モノクロしか撮れないという縛りプレイである。
レンジファインダーカメラの行為主体性にモノクロ縛りとくれば、もう撮影に対する雑音がほぼなくなる。
レンジファインダーカメラだから正確無比の構図やピント合わせは困難、かつ白と黒のグラデーションだけの世界、これであれば何も雑念が脳内によぎらない。
便利カメラは可能性が無限に近く、RAW現像の素材集めとして割り切ってしまうこともできる。
レンジファインダーカメラの技術的な選択肢は狭い。だからこそ失敗は失敗ではなく、初めから無理だったと諦めることができる。機能が絶妙に限られているからだ。
色は雑念を生む。色は演出しやすく、世界を自我で染める誘惑が強い。
そして選択肢が多すぎると、逆に「正解」へと収斂していく。
自由過ぎると正解を求めてしまうのは、世の中がiPhoneやユニクロばかりになってしまったことと同意である。
せっかく高機能なカメラであっても、RAW現像を必死に学んでも、選択肢の多すぎる圧倒的な量の世界では、正解という名の方向へと流されてしまうのだ。
世界が似たような写真ばかりになってしまうのは、誰もが簡単に「優等生な写真」が撮れてしまうがために『偏差値の高い写真』へと収斂していくのである。
ライカM monochromはレンジファインダーカメラであり、モノクロ写真しか撮れない。
そこにはあの強い欲動に対して初めから降参してしまう理由があり、そして先程も述べた不便であるからこその世界との対峙、「偶然性」があるのだ。

ライカM monochrom買う人あるある

初めてmonochromを知ってから10年。
monochrom買う人あるあるだと思うが、最後の最後で迷うのはやっぱりカラーライカであろう。
「色など要らぬわ!!!」と色即是空空即是色を標榜しても、「でもやっぱりカラーで撮りたいときあるもんなー」と急に転向し、「いやいや、ライカでモノクロはかのブレッソンや・・・」と御託を並べ、「冷静になれ。モノクロ専用センサーの真価など素人目では理解できぬ」と落ち着いてみた後、「でもカラー撮るならライカじゃないカメラでもよくない?」と同価格帯の国産ミラーレスカメラに戦略的撤退し、気づけば唾を付けておいた中古monochromは他の清水の舞台から飛び込んだマップ奴隷の手に渡っていた・・・なんてことを100回は繰り返す(金持ちは除く)
しかし、円安とプーチンのせいでどんどん値上がりする品々の中で、ライカは強気の値上がり攻勢でそろそろ肉眼では見えない空の彼方へと消えていきそうだった。
そんな中、マップカメラ巡回中に最近ド値上がり傾向にあるライカ製品にしてはそこそこのライカM Monochrom (Typ246)を発見した。
しかも平日休みの午前中である。
眼の前に補足したライカに今世界で一番近いのは僕であるという妄想は、おそらく妄想であるが現実としか思えなかった。
この価格帯であれば、カラーも撮れるライカも買えるし、中判デジタルカメラも買えちゃう、ちょっと付け足せばハッセルブラッドなんて劇薬もあれば、堅実に国産ミラーレスカメラで手堅く・・・死んでもないのに走馬灯のように駆け巡るカメラたちの可能性の残像、そして理性という名の天使たち。
天「あなたはシンプルに貧乏人で、ついでに家と車のローンもあるのよ」
僕「いや、最近大きい買い物してないじゃないか。それにコロナのせいで旅行も行ってなかったし、貯金だって少々・・・」
天「誰も思ってないけど、一応一家の大黒柱なのよ。良き父親としての自覚を持ちなさい」
僕「誰もそんな期待なんかしてないじゃないか。それにこれからは女性が活躍する時代だから僕は早く扶養に入って・・・あとベーシックインカムとかまだかな?」
天使は軽蔑の目線で天界に召され、僕は神経の通わない震える人差し指でクリックという名の発射台から清水の舞台より射出された(※ライカ京都店で購入したという意味ではない)
ほぼ勢いで購入に至ったわけを、射出後の空中に漂う自分を客観的かつ冷静に分析する。
欲しくはあったが、しかし買おうとは思っていなかった。
だが買うシミュレーションはほぼ完璧に構築されていた。
ライカを手にするフェーズであったという幻想は、しかし現実感はあった。
ライカでなくとも良かったが、しかしライカはもう見えなくなる寸前の輝きを放っていた。
ライカを買うというのは、こういう状態の人なのかもしれない(※庶民に限る)
絶対に買おうとまではしていなかったのに、ちょっとしたきっかけやその日のコンディション、そしてマップカメラのメールのせいで、偶然が現実を生み出し人はそれを遅れて認識する。
要するに、買うてもうたのだ〜

ライカとは?人間とは?世界とは?

※デニス・ホッパーではない

こうして手にしたライカM Monochrom (Typ246)。
やはりレンジファインダーカメラは良い。まさに格別の撮影主体感。
そして白と黒のグラデーションにうっとり・・・
そんな買って直後のポエム感想はまた今度にするとして、とにかくデジタルライカを手にしたのである。
ライカのカメラの質感とファインダーを覗いて見える世界、そしてシャッターボタンを押したときの感触、これを味わえば金や御託や蘊蓄やiPhoneなんて一瞬で消し飛んでしまう。
ライカは良いカメラでは決してない。ライカだから良い写真が撮れるわけでもない。ライカを手にした自分だからこそ対峙できる世界があり、そこにより主体性を感じながら陶酔することができる魔力を秘めている。
ライカはコスパも悪く、全くもって不要で、誇るべきものでもなく、ただの時代遅れの趣味性の高いカメラである。
そういった理性の荒波を越えた先に何かあると思えば手にすれば良いことがあるかもしれない。
高い高いと言いつつ、生活を切り詰めれば買えない額ではない。維持費だってほぼかからない。
祭り拝むものでもなく、極度に怖がるものでもない。
ひとえにただのカメラであり、だが人を惑わす魔力を秘めている。
魔力という形容は、物が持つ力であり、昨今の商品には宿らない幻想である。
幻想は広告に彩られ、象徴となって社会に生きる人間に多面的な角度から降り注ぐ。
すべては幻想であり、茶番なのだ。
茶番こそがライカであり、自分とライカとの距離感こそ現実と象徴の狭間になっている。
そして気づくのである。現実こそ茶番なのだと。
ライカという選択こそ、茶番に生きているという現実なのだ。


買ってしまった言い訳シリーズ

SIGMAとの出会いは脳内革命でした。
フルサイズFoveon出たら、車売る予定なので実質タダで買えます。

未だになぜ買ったのか理解できない破壊の鉄球との出会いは1万字。
人生でこれほど理解できない行動を意識的に行った自分との未知との遭遇です。
ライカ買わないと宣言していますが、養老孟司曰く人間は数年で細胞が全部入れ替わるらしいのでこのときの僕は僕ではないです。

要するにカメラやレンズによって見える世界が違いますよという話。
レンジファインダー論もまさにこれですね。

写真は動画でもアップしています。
コメント欄が異国のおじさんばかりという稀有なチャンネルです。
グローバルなFoveon教徒のおじさんたちと楽しく過ごしています。

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・