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なぜ『SIGMA fp』はカメラの死を宣言したのか

だいたい使ってみて、僕が予想していたとおりのカメラだった。

予想というのは機能とかではなく、歴史を変える革新的なカメラということだ。それくらい反骨的でアナーキーなカメラのくせに、静観な面立ち。

このカメラは、ハマる人とハマらない人が極端だと思う。

教科書的な作品作りには向かない。教科書的な作品を否定しているのではなく、教科書に載っていないカメラだからだ。

撮影を楽しみたいなら絶対買いだ。たいていのことはできるし、拡張性という可能性に胸が躍る。未完成なのに拡張性がすごいのだ。

要するに、fpとはカメラの死を宣言したカメラなのである。

詳細はブログ記事を見てほしいが、noteではもう少し簡潔にまとめてみたい。


スペック競争というカメラ業界の緩やかな死への反発

カメラの売上が激減し、アサヒカメラは休刊して、オリンパスのカメラ部門は売却された。

これは全部スマホのせいだ。スマホはカメラの機能であった「記録」を完全に奪った。

日常生活に不可欠なツールとなり、なおかつ軽量で常時肌身離さず持ち歩いているスマホにカメラが付いているんだから勝てるわけがない。

そこでカメラメーカーは、スマホとの差別化を考えた。

それがスペック競争だ。

しかし、スペック競争はカメラとしてのスペック競争であり、スマホによりカメラから離れた/奪われた未来の顧客層が『カメラ内のスペック競争』に興味を示すはずはないだろう。

だがカメラメーカーは、これでもかと機能をてんこ盛りにして楽天市場みたいな解りづらいカメラを量産している。

スペック競争になると新機種は5年で投げ売りされる。ただでさえカメラに興味が薄い層が、5年で半額以下になる数十万円もする買い物をするだろうか?

結局、カメラメーカーはスマホとの勝負を早々に撤退し、残り少ないカメラユーザー内のシェア争いというレッドオーシャンで打算的妥協的な戦いを繰り広げている。

でも、これを否定するわけではない。純カメラメーカーは、Nikonくらいであとはカメラ以外でも儲かっている。

要するに、カメラはブランド戦略で生産しているというポジションになったのだ。簡単に言えば、冷戦期のロケット飛ばし合いみたいなもので、要するに広告なのだ。

しかし、SIGMAは違う。SIGMAは縮小するカメラという枠組みをもう一度脱構築しようとしている。

それがFoveonセンサーであり、そしてfpである。

SIGMAは吉田松陰であるとブログ記事にも書いた。吉田松陰は維新後に神のように崇められているが、それは明治維新勝者側の総初期の革命家であったからだ。

吉田松陰は偉人とされるが、かの高杉晋作がドン引きするくらいの狂人である。なんせあの時代に異国船に乗り込むという行動は、現代人でいえば未知との遭遇レベルのSFの世界なのだ。

SIGMAは幕末の江戸幕府のように、時代についていけず身動きの取れなくなった老人のようなカメラ業界の中で、吉田松陰のように気勢を上げて立ち上がった革命家なのである。

fpを見たらわかるだろうが、そもそもスペック競争には立ち入らないスタンスをこれ見よがしに示している。

電子シャッター、ファインダーなし、2400万画素というスペックは、そのコンパクトさを取っても最近のスペック広告の中では埋もれてしまいそうだ。

しかし、写真と動画のハイブリッド、悪く言えば中途半端、しかしその説得力のなさはユーザー色に染めてくれというカメラ愛なのである。

未完成で拡張性がある。こんな売り方、現在の日本企業ができるだろうか?

しかもカメラというかなり固まりきった製品で、SIGMAはそれをやったのだ。

これは革命なのだ。妥協的なスペック競争ではなく、撮影に集中することへの回帰、そしてこれが次世代のカメラなのだという挑戦。

だからこそ、スペック論争の多い価格コムのようなレビューサイトで声が少ないのだ。

fpは売れているが、とにかくレビューサイトや掲示板での声が少ない。

しかし、Googleで検索すると僕のような個人ブログがバンバン出てくる。

スペック競争広告で洗脳されてしまうと、fpという存在が認知的不協和を起こしてしまう。

fpはカメラなのか?ビデオカメラなのか?よくわからない。

何がしたいのかわからないカメラなのだ。それは要するに、カメラに使われることが当たり前になった現在の当然の反応なのかもしれない。

fpは人間が使うカメラであり、撮影をするために使うカメラだ。

現代人は、カメラに使われて撮らされる存在になっていないだろうか?

それこそ、カメラを追いやったスマホの影響なのだ。


撮影する瞬間の感覚と集中を爆発させよ

RAW現像がカジュアルになって久しいが、fpはJPEG撮って出し原理主義といっても過言ではない。

カラーモードによっては、RAWで撮れないものまである。

そしてカラーモードやトーンレベルを物理ボタンで操作できるのだ。

ISOはできないのに!

要するに、スチルに関して言えばfpは撮って出しに強いカメラだといえる。

RAW現像ありきで撮る写真は、写真撮影ではなくデータ収集だ。もちろんRAW現像をすることで表現したい目的がある人は、それも新しい写真表現として確固たる地位を気づいているので否定はしない。

だが、僕のような『撮影行為を楽しみたい人間』、要するに結果より過程を楽しみたい道楽者もいる。

僕はRAW現像はあまりやらない。なぜなら面倒くさいからだ。ただそれだけ。本当はPhotoshopとか使えたら良いなあと思うのだが。

fpはユーザーインターフェースを使ってみれば見るほど、撮って出しで結果を出すためのカメラだと思う。

フィルムカメラに近い設計思想なのだ。

もちろんRAWでも撮れる、RAWで撮れば自宅で現像できるし多少の失敗はカヴァーできる、この保険は時に撮影への集中を削ぐ因子になる。

fpは撮影するその瞬間を大切にしてくれるカメラだ。撮影する瞬間に感じた何かを、写真として表現してくれる。

撮影する瞬間こそ、その景色から得られる情報量が最大なのだ。だからこそ、受容した感覚から到達したイメージへの転化を、そのタイミングで行うことこそ本質的な意味での記録であり表現なのだ。

そう考えると、軽量コンパクトなfpの設計思想に合っているように思う。

fpとは、撮影者の感覚器なのである。


オールドレンズとfp

Leicaレンズを使ってみた。

オールドレンズ、しかもマニュアルとなれば難渋するかと思いきや、非常に便利だった。

ピント拡大表示やフォーカスピーキングのおかげ。

この辺の便利さは心がけている。

撮らされるための機能ではなく、楽しませるための機能の選択と集中は合理的だ。

しかし、恐ろしいオールドレンズ沼への特別招待券付きカメラなので気をつけるべし。



簡潔にまとめると言っておいてなんだが、さっぱりまとまらず。

まあこれも僕の性格なので。

でもそれくらい言葉が湧き上がってくるカメラなんです。

ブログ記事の方で非常に熱く書いてみたところ、なんとTwitterでSIGMAの山木和人社長からコメント付きリツイートしていただいて感無量でした。

SIGMAすげえ!一生ついていきます、社長!

雑感ですが、fpの発表時の山木社長のプレゼンやファームウェアアップのSIGMA社員さんたちの感じは、カメラ界隈で非常に好意的に受け止められていたと思います。

やっぱりこれって、僕が書いてきたように昨今のカメラ業界の元気の無さに一石を投じたからだと思うんですよね。

カメラを愛してやまない人たちが、革命を起こすために挑戦したんだなと思った方が多かったんじゃないかと思います。

これは日本の全産業にも言えますが、やはり挑戦することがリスクとしか捉えられない社会というのはおかしいと思います。

たしかに企業は儲けなければ潰れてしまいます。だからこそ安全パイの中でできることに終始するのは戦略としては有りかもしれません。

ですが、グローバル化に対応できなかったという重い空気感は一向に晴れませんでした。

SIGMAの挑戦が、カメラという機械製品としては歴史が長く、そして日本のお家芸といわれた産業において行われたということは、非常に大きな意味があったように思います。

fpを大絶賛しているように思われるかもしれませんが、それはスペック競争の弊害で、何かと比較しないとカメラが語れないというわけではないのです。

fpは、LeicaM3の登場と同じような歴史的意味があると個人的には思っています。

これは機能ではなく、コンセプトであり時代の概念をひっくり返す「勢い」です。

これからの時代はますます多様化の中でのスピードが早くなっていくと思いますが、この流れで買ってきた企業は皆コンセプトが強いんですよね。

SIGMAさんにはこれからも攻めまくってほしいですね。

あとFoveonの新カメラお待ちしております。首を長くして(笑)



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