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「友情・努力・勝利」は廃れたのか?

そんな風に言われるが、本当のところ、どうなのか? この点について、自分の直感を話してみたい。

「友情・努力・勝利」は廃れた?

「友情・努力・勝利」は『少年ジャンプ』のスローガンとして世間に認識されていた。しかし、”最近は方針転換をしているらしい”ということが話題になっている。たとえば、努力の代わりに天賦の才が描かれる作品が多くなった、などと言われる。仲間がたくさん亡くなっていくようなダークな世界観の作品も目立つようになってきた。

もちろん、「友情・努力・勝利」の構造が捨て去られたわけではない。だが、それだけでは足りない。それ以外の要素も求められるようになったのではないか、と思う。

そう考えていけば、たしかに「友情・努力・勝利」だけの漫画はウケなくなってしまったかも分からない。

「友情・努力・勝利」の飽和

だが「友情・努力・勝利」の構造そのものも廃れてしまったのだろうか? 私はそうではないと思っている。むしろ、そういう構造の物語は増え続け、飽和してしまったかのように思える。漫画以外のコンテンツでもこの構造が使われるようになり、漫画の入る余地が無くなってしまったのではないか。

例1:スポーツ報道

例えば、スポーツ報道。羽生結弦選手を思い浮かべると理解しやすいだろう。

密着取材やファンサービスによって、ファンや視聴者との「友情」を演出している。

特に、東日本大震災以降、羽生選手と東北の繋がりが、さかんに報道されるようになったように思う。これにより(キャラクターとしての)羽生選手は、『少年ジャンプ』の主人公が持ちそうな動機・目的を獲得し、また東北の人々との友情を得たのではないか。

選手本人は自身のパフォーマンスを磨くという努力をする。この点はいつでも変わらない。

オリンピックなどでメダルを獲得し勝利を示す。

例2:アイドルの活動

AKB48以降のアイドルに関しても「友情・努力・勝利」の構図がある。アイドルの活動歴そのものが成長物語として機能するのだ。

握手会というファンサービスで”アイドルからファンへの友情”を醸し出す一方で、総選挙システムによって”ファンからアイドルへの友情”を演出することも可能になった。

ダンスや歌というパフォーマンスを磨くという努力は当然行う。ただ、それをドキュメンタリー映画として公開する流れができた点は見逃せない。ファンに対して、アイドルの努力を示せるようになった。

オリコンチャートの結果、SNSでの人気などが勝利の要素となる。随分と資本主義的な勝利である。

例3:Youtuber

Youtuberにもその構図が当てはまるように感じる。これはニコニコ動画で同様の活動を行っている生主なまぬしについてもそうだ。

Youtuberの友情は、Youtuberとファンの間に発生する。ライブ配信を行えば、そこには”Youtuberとファンとの交流の場”が生まれる。時に、ファンはスーパーチャットで金銭的な支援をする。それによって友情の代わりとなる関係が生まれる。

努力はもちろん、パフォーマンスの努力である。会話の技術、動画の編集技術を向上させることで、人気を得る努力が必要になる。

勝利は、収益化、チャンネル登録者数やSNSでのフォロワー数という形で示される。リアルタイムで強くなっていく様がわかるという点が新鮮だろうか。『ドラゴンボール』のスカウターをいつでも装着しているようなものである。配信者の生活が潤っていく演出もまた勝利の要素として重要である。

まとめ

「友情・努力・勝利」の漫画自体は減ったかもしれないが、この物語構造自体は別のところで活かされているのではないか。反対に、スポーツ報道やアイドル活動、Youtubeにおいてそういう物語構造が利用されるようになったために、『少年ジャンプ』は方針転換をしたのではないか。

おわりに

データとしての裏付けができていない部分が多く、まだ直感でしかない。

また「友情」の定義に関しても甘いところがある。「『推しとファン』の関係は、決して友情関係と同じではない。」そう反論されるかもしれない。

その点を深めていきたいと感じている。

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