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私の読書日記:2021/06/07

※※ヘッド画像は 春田みつき さまより

 今日もまた読書日記を書く。

中島敦『名人伝』

 舞台は春秋戦国時代の中国、趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)。大雑把に言えば、いわゆる『キングダム』の時代の話である。主人公の紀昌(きしょう)は町一番の名人や仙人から弓術を習い、最終的には「不射の射」を会得した。そんな風に噂されるようになる。「不射の射」というのは、弓矢もなしにただ射る動きのみで飛ぶ鳥を打ち落としてしまうような境地のことだ。
 さて、長年の修行の後、老いた紀昌は邯鄲に帰ってくる。この後の話が面白い。知人の家に赴いた際に、年老いた紀昌は弓矢を見るのだが、その「弓矢」という名も弓矢の用途も思い出せなかった、というのだ。弓術の名人たる紀昌が、弓矢すら忘れてしまった、と。

「ああ、夫子(ふうし)が、――古今無双(ここんむそう)の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途みちも!」
 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟(しつ)の絃を断ち、工匠は規矩(きく)を手にするのを恥じたということである。
――『名人伝』青空文庫

 そして、このように、知人の驚嘆と人々の反応とが語られて、話が締めくくられる。面白くもあり、含蓄のある小説だ。では、この小説の面白さと含蓄とは一体、何であろうか? その点を掘り下げてみよう。

『名人伝』の面白さ、そして含蓄

 この作品を読んでいて、ついゲラゲラと笑ってしまった。口汚く言えば、弓矢をも忘れた瘋癲老人・紀昌と、紀昌の名声に惑わされる邯鄲の人々の様子が滑稽であるからだ。だから、つい、笑ってしまう。

 一方で、紀昌に対する畏敬もまた感じざるを得ないのではなかろうか。紀昌には、どこか高名な禅僧のような雰囲気がある。日本の読者はどうしてもそのように意識してしまうだろう。

 紀昌のこの二面性が話に深みを持たせているのだ。それがこの小説の含蓄の正体、と言えるのかもしれない。

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