現代文の読み方、解き方、教え方④ 国語のできる人、できない人について再考してみた
話を先に進める前に、国語ができる(と思っている)人と国語ができない(と思っている)人について、もう少し書いておきたい。それぞれの強いところと弱いところについてだ。
国語ができる(と思っている)人の長所は、何といっても「話が早い」ところだ。一を聞いて十を知るとまではいかないが、どんな話題を振っても理解が早い。しかし、それは短所でもある。大雑把に捉えてはいるのだが、細かい部分の読み違いや読み飛ばしが必ずある。
もう一つ、これが(国語教師にとって)一番の難敵なのだが、彼らの多くは、知らず知らずのうちに相手(の言葉・文章)を見くびってしまうという癖をもっている。「こういうことなんでしょ」「こういうことを言いたいんだよね」と、軽く自分の知識の範囲内に収めてしまいがちなのだ。「そうだけど、違うんだよなぁ」。
一つひとつの言葉が軽くあしらわれている印象なのだ。あなたはまだ経験が足りないので、よくわからないだろうけれど、この言葉にはもっと深い感動を伴う認識があるのだよ、と言いたい。だが、よほどの関係性がないと、この「あなたの経験が足りない」という言葉は出せない。相手を傷つけてしまうかもしれないからね。
これが授業であれば、時代背景や筆者の生育環境などを語ることで少しは想像してもらえるのだが、塾や予備校、通信教育や模擬試験で読む大量の文章までケアすることはできないし、そこではそこで(点数を取るための)読解が行われていたりする。
軽く読めてしまうという能力、読書に対する姿勢には、いつもこのような他者を軽んじる、他者に対する優位性のようなものが隠れている。もちろん自戒を含めてのことだけれども。
一方、国語ができない(と思っている)人の長所は……。いや、彼らについて説明するには、まず短所を先に書いた方が早い。彼らは、自分が国語はできないと思い込んでいる。その思いが、「自分の読みは間違い」という前提を生み、質問に対して「わかりません」と答えたり、自分の素直な読みとは違う読みをひねり出したりして、ますますこんがらがって、自分を文章から遠ざけてしまう。自縄自縛に陥っているのだ。
それをときほぐすのが、もっとも難しい。ぼくはカウンセラーではないので、「開き直れよぉ」とか「どこからだろうと自分の居場所からスタートするしかないじゃないかぁ」とか、乱暴な言葉を使いがちなのだが、まぁ、あの手この手で自縄自縛の縄をほどく作業にいそしむ。一応、教師なので。
でも、この国語ができない(と思っている)人が、覚悟を決めたら、自分の立ち位置を自覚したら、すばらしい伸びを見せてくれる。毎年受験生を教えていると、こうやって覚醒する生徒が何人も出てくるのが楽しい。
なにせ、彼らには自分が未熟だという認識がどこかにあるから、文章に対して素直に対することができる。わからない言葉に対してわからないと言うし、それを調べて身につけることを厭わない。新しい文章を読むときの感動を惜しまない。彼らの顔に浮かぶ新鮮さといったら、妬ましいほどなのだ。
文章や言葉に対する誠実な姿勢、自らの謙虚な立ち位置、愚直なまでにまっすぐな読み方。どれも本読みにとっては、失って久しいものである。「あーっ、あなたの文章に対する姿勢が欲しい」と真剣に思ってしまう。尊敬する。
でも彼らも、いずれ言葉や文章を読み慣れた者の姿勢を身につけてしまう。そしていつか、そんな自分の姿に愕然とし、言葉や文章に対する誠実さ、謙虚さを再び身につける。でもまたいつか……。ぐるぐるぐるぐる繰り返す。
受験も迫った秋口に講習に参加してきた生徒が、「先生、どうやって問題文を読んだらいいんですかぁ?」と聞いてきたので、「うーん、謙虚に、素直に、誠実に、かな」と答えた。すると、彼はすかさず「精神論かよ!」と突っ込んできた。その返答にもたもたしていると、昨年から講習を受けていた生徒が、「精神論じゃないんだよなぁ。すごく具体的な話!」と答えてくれた。
謙虚に、素直に、誠実に、言葉や文章に(もちろん人に対しても)対するって、なかなか難しいことなのだ。