大江健三郎氏の小説『セヴンティーン』を読んで

 大江健三郎氏の小説『セヴンティーン』を読んで。

 主人公の十七歳の若者は、「死んだら俺の存在はゼロになり、永遠にゼロのままだと思うと、吐くほど怖い」と言っている。

 この主人公は、死の恐怖を性的な快楽で覆い隠せないものかと、自慰にふける。これは、セックスに耽溺する男にはよくあることだ。石原慎太郎も自ら自分が性欲の強い男だったと言っているようだが、強いのは性欲ではなく、死の恐怖だったことは、死んだあとも気づいていないかもしれない。

 大江氏によると、天皇幻想とオルガスムスをむすびつけて死の恐怖を打ち消すのが右翼思想らしい。17歳の右翼の若者は、もてあます性欲を右翼思想に注ぎ込んで、死の恐怖を回避しつづけて、それが破綻する前に、まんまと自殺する。
 わたしも、あんまり死ぬのが怖くて自殺したいと常々思っているので、『セヴンティーン』の主人公の死に方は羨ましい。
 
 大江氏としては、この死に方は、ひとりの右翼青年のことだけではなく、かつて、大日本帝国の支配下、天皇絶対主義に洗脳された日本人が、戦場で「天皇陛下万歳!」と叫びながら命を粗末にしたこととしっかり繋がっていると言いたいのではないだろうか?←註。わたしはネトウヨなのでそう思ってません

 サヨクの人や中道の人からみると、右翼思想は、個として生きることに堪えられない人の駆け込み寺である。
 個人であるには自由に生きなければならない。
 自由に生きることから逃走する人は、ファシズムにはまり込む。そういう話を、あのユダヤ人、エーリッヒ・フロムは、アメリカを応援するプロパガンダ論文『自由からの逃走』の中で展開している。
 大江氏の見方は、フロムと似たようなものだと思う。


 大江氏もフロムも、正しいとわたしは思う。←註。わたしはネトウヨですが、正しいと思っています。

 自由な個人という観念は、正しい数式のように、頭の中で成り立つ。
 けれども、問題は、現実に人間が「個人として自由に生きる」ことが可能なのか、だ。

 大江氏の場合、個人としての自由の道を求める投企の営みは、日本国憲法の第九条を死守することらしい。
 と言うのも、大江氏は、平和集会にも姿を出していたからだ。


 ああして、有名人が顔を出して政治的な(ご本人としては真理を述べただけだろうが)発言をすれば、有名人に嫉妬する人に憎まれる。
 大江はお花畑だとか言われているあいだはいいが、最悪の場合、命をねらわれる。
 特に、日本には右翼と言われる人たちがいて、なにをしでかすかわからない。
 石井紘基議員を殺したのは右翼だった。

 こうした事件があるから、右翼に対して持っている一般の人の恐怖感を、誰か、お金のある人が自分の利権を守るために使える。街宣車が抗議に来たらマスコミも出版や放送を控えるのである。
 また、右翼に対して持っている一般の人の嫌悪を、わたしのような善良で人畜無害なネトウヨたたきにつかえる。
 天皇とか日本とか言っている奴は、右翼だと言えば、まっとうな人は耳を貸さなくなる。

 それらが、右翼が日本から無くならない理由だ。

 右翼がいる日本で、
「九条は絶対に変えてはいけない」
など言うのは勇気がいる。

 大江氏の勇気ある行動を見て、こういうことが言えないだろうか?
 人間は、命が惜しい。けれども、誰でも必ず死ぬ。
 そういう絶対矛盾の自己同一的な存在であるから、
限りある命なら永遠に生きたい
という願いを、人間は心のどこかで持っていると思う。

 男性なら知っているように、
射精する瞬間は、永遠につらなっている
一瞬の永遠である。

 だから、セックスの中に「永遠に生きる」ことを求める人は、石原慎太郎のような女好きになるだろう。永遠を求めて、一瞬の射精を際限なく繰り返すのだ。 

 また、大江氏が描写するように、右翼思想にはまった性欲旺盛な青年は、天皇陛下万歳と叫びながら死ぬとき、ちょうど射精する瞬間のように永遠を垣間見るのかもしれない。

 大江氏のようなヒューマニストの平和主義者の場合は、どんな一瞬の永遠(大江氏流にいうと民主的射精といったところになるのかな)を求めているのだろうか?
 わたしの推測は次のようなものだ。
 大江氏が、あの妙な眼鏡をかけて、自分の身に危険が及ぶかもしれないとわかっていても、壇上に立つとき、自分の死後、人々の心の中に丸眼鏡をかけた顔とノーベル賞作家としての大江健三郎の名前が永遠に残るのを幻想するのかもしれない。

 ということで、石原慎太郎氏も大江健三郎氏も、めざしているところは同じだったように、わたしには思えるのだ。

 わたしの推測はなかなかいけていると自分では思っている。
 けれども、実際のところは、ご本人たちに語ってもらうしかない。
 天国で、お二人の対談が実現したら、ぜひ、YouTube動画かなにかで配信してほしいものだ。

 ちなみに、
限りある命ならば永遠に生きたい
という言葉は、1970年に自決した或る作家のものである。
 その作家の書斎に残された書置きには、「限りある命ならば永遠に生きたい、三島由紀夫」と記してあったそうだ。

四月四日付記。

三島由紀夫が『セヴンティーン』に強い関心を持っていたそうだ。
「大江っていう小説家は、実は国家主義的なものに情念的に惹きつけられている人間じゃないだろうか」と三島由紀夫が言っていたようだと大江氏が語っている。
 ↓この記事で今朝知りました。

 石原慎太郎と大江健三郎は、一枚のコインの裏と表。
 これがわたしの推測ですが、ますますいけてるような気がしてきました。
 両者のファンは、それぞれ、激怒するでしょうが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?