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大江健三郎の死を悼む - 戦後民主主義を純粋に引き継いで実践した書生で指導者

2013年11月、秘密保護法案の反対デモに立ち寄るべく銀杏並木の国会裏に出かけたら、途中、官邸前交差点の歩道上に大江健三郎の姿があった。昼間、何人かの市民と一緒にそこに佇み、本を読みながら時間を潰すような感じで立っていた。その場所の人数は疎らで、デモの群衆がぎっしり幟を立てて集会していたのは衆院第二議員会館前だったから、そこは数人だけが静かに抗議の時間を送る一角だった。あれ、大江健三郎が来ている。テレビで見る顔と同じだ。歩く足を止め、数メートルの間隔で凝視していたら、その視線に気づいて大江健三郎は反応を返した。こちらに顔を上げ、少し照れた表情を浮かべ、くるっと後ろを向いて背中を見せた。私は横断歩道を渡ってデモの方に進んだが、何かとても幸運な出来事に遭遇した気分になり、日記帳代わりのツイッターに報告メモを上げた。(写真は東京新聞)

大江健三郎が死んだ。88歳だった。そんな高齢だったのかと戸惑う感覚を覚える。もう少し元気で長生きして欲しかった。まだ数年は言論活動してもらえると期待していた。そういう残念な気持ちを正直禁じ得ない。ここ数年マスコミに出る場面がなく、体調が不全なのかなと気になっていたけれど、もう88歳になっていたのだ。大江健三郎は、9条の会の発起人の中でいちばん若かった。政治に対して敏感で精力的で、9人の知識人の中で最前衛に立ち、会の代表格として活発に発言していたから、実年齢よりも若く感じてしまい、80代前半くらいに思っていた。昨年、安保3文書の閣議決定があり、防衛費倍増とトマホーク配備の決定があり、慌ただしく、何の抵抗もなく軍拡政策が進められて行く中、大江健三郎の言葉が欲しかった。何も警世や抗議の声が出ないのは、それだけ健康状態が悪いのだろうと想像するしかなかった。

9条の会の9人の知識人。大江健三郎、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、井上ひさし、奥平康弘、梅原猛、澤地久枝、三木睦子。生き残っていたのは大江健三郎と澤地久枝だけ。澤地久枝は93歳で、大江健三郎の方が5歳も若い。大江健三郎に代わる者がいないから、この死は私にとって痛恨で断腸の思いである。「早すぎる残念な死」だ。今、台湾有事の戦争を止めるべく動きを起こさないといけない。大江健三郎にはその先頭で言葉を発してもらいたかった。最後の力をふりしぼり、9条平和主義のメッセージを絶唱してもらいたかった。菅原文太のように、われわれの心の中に永遠に刻まれる、遺言となる渾身の言葉を残して欲しかった。大江健三郎にはその使命があったし、本人もまた、最後まで9条を守る現役戦士たるを自覚していたはずだ。自らに代わる者がいない事実を承知し、シンボル的リーダーの責任を理解していたと思う。

9人の中で最も若い大江健三郎は、9人の中で戦後民主主義に最もピュアに即いた人だった。迷いや揺れが全くなく、個性的な思想の屈折や遍歴の回路がなく、真っすぐに丸山真男の戦後民主主義にコミットした人だった。それを堂々と語って説いていた。あるときのテレビ番組で、司馬遼太郎の「明治国家」を引き合いに出し、「司馬遼太郎さんの『明治国家』と同じ意義の重さで丸山真男さんの『戦後国家』がある」と言い、戦後日本を積極的に称揚していた姿が印象に残っている。戦後民主主義の直系の申し子であり、自らそれを自認し自負していた。丸山真男の戦後民主主義とは、民主主義の永久革命が神髄であり、支配される者(demos)が支配する(kratos)逆説のダイナミックスを不断に実現する過程と運動のことである。大江健三郎はその政治理念を信念として持っていた。信奉し実践していた。丸山真男の弟子だった。筑紫哲也と同年齢。この世代は本当にこの精神の芯が固い。

だから、常にデモに出たのである。「市民はデモするしかない」と脱原発運動の場面で説いていた。2013年11月に官邸前で見た光景は、大江健三郎のアジテーションがうわべの言葉でなく、自ら実践していた事実を証明するもので、流石だなと感心させられたし、その姿に大いに勇気づけられた。大江健三郎には知識人の基準と規範があり、それに依拠することに躊躇がなかった。戦後日本の偉大な先輩たちの行動に続くことに自信と誇りを持っていた。例えば、文化勲章の辞退もそうである。巷の右翼はこの一件に執拗に難癖をつけて絡んでくるけれど、本人の理由説明の口上はどうあれ、この行動は丸山真男のそれを見倣ったものだ。戦後民主主義の知性の系譜に繋がる者として、標準のコードとプロトコルに逸脱することなく準拠したのだ。文化勲章辞退こそ大江健三郎にとって最高の名誉であり、男子の本懐だっただろう。

大江健三郎はブレなかった。言葉と行動が真っすぐで信頼感があった。そこが魅力であり本当に頼れる存在だった。福島第一原発事故の後の2011年9月に始まった「さようなら原発1000万人アクション」でも、呼びかけ人となった大江健三郎は常に横断幕を持って先頭を歩き、注目の集会で演説する姿があった。その活躍がNHKの7時のニュースで積極的に紹介された。脱原発デモの看板だった。今から考えると、2012年6月からの反原連(しばき隊)の官邸前デモに人が集まったのも、それに先行して「さようなら原発」の活動と存在があり、指導者の大江健三郎が市民にデモ参加を呼びかけた説得が奏功し浸透していた点が大きい。大江健三郎は熱心に純粋に市民にデモを訴えた。小田実が健在であればやることを76歳の大江健三郎がやっていた。9条の会の設立が2004年で69歳のとき。そこから7年経った2011年、76歳の大江健三郎は見た目も変わらず若々しく活力に満ちていた。

9条の会を立ち上げたときの会見で、大江健三郎は教育基本法について次のように語っている。抜粋して嚙みしめたい。改悪される前の教育基本法のことである。

私は教育基本法をだいたいそらで言えますが、本当にいい文章なんです、内容があります。悲惨な戦争をしてアジアに悲惨を撒き散らして、世界的にも断絶して、日本国内にも大きな損害をもたらした。こういう段階で、大人が子どもたちに「私たちはこういう教育をしようとしているんです」と子どもに本気で訴えかけている言葉です、教育基本法の文体は。法律の中でこういういい言葉を使っている法律を私はあまり知りません。これは憲法の前文と9条にもつながっています。憲法全体の非常に優れたエッセンスを取り出して、しかも分かりやすい言葉でみんなに伝えようとしている。

伝えようとする自分たちは、戦争に責任のあった人間として、日本を再建する人間として、それに携わる人間として、父親として教師として、「われわれは、こうしようとしてるんだ」と呼びかけているんです。世界に向かって開いていく教育というものが基本的な構想です。たとえば、われわれが平和と真理を目指す教育をするとか、個性というものを表現しながらしかも普遍的であるものを文化として作りたいと言っているのは、日本人が世界に向かって開こうとしているわけです。その勢い、その方向づけが教育基本法の一番いいところで、そして憲法につながるところだと思います。

この言葉もとてもいい。13日にNHKのニュースで放送された、2015年のインタビューの言葉もいい。平和憲法へのコミットを語っていた。今、平和憲法という単語を使う者がいない。マスコミの論者にもいないし、ネットの中のブロガーの記事や匿名者の投稿の中にも見ない。全くと言っていいほど見ない。それなので、私はなるべく平和憲法という語を記事内に挿入するよう心掛けている。戦後民主主義に即いているのだという証明と主張の意味で、その態度をとっている。客観的に眺めて、平和憲法の語を自己と一体化して強く押し出す者として、私は最も若い部類だろう。同年齢でもほとんど見ないし、若い世代では皆無の状況だ。この20年ほどずっとそうだった。あと何年、平和憲法という語を文中に使って意味がある時間が続くか分からない。もう使えなくなるかもしれない。過去形になるかもしれない。教育基本法についても、それを言うときは旧教育基本法と呼ばなくてはいけなくなった。

中村哲は大江健三郎より11歳若かった。生きていれば77歳。おそらく、大江健三郎の後は中村哲が戦後民主主義のリーダーの座をバトンタッチしていたと思われる。中村哲には大江健三郎に匹敵する十分なカリスマ性が備わっていた。言葉に力があった。聞く者を感動させた。理想を信じて進めと励ましてくれた。だが、もういない。二人ともいなくなった。誰もいなくなった。戦後民主主義の言葉を、平和憲法の理念を、その重さと響きを正しく伝えてくれ、われわれを説得し、よく教化し、勇気を与えてくれる指導者がいなくなった。好きだった内橋克人も逝った。あと一人、91歳の山田洋次がいるけれど、他には誰もいなくなった。一人一人と巨星が墜ちるたび、空が暗くなり、地上が暗黒さを増す。日常に不意に不吉に割り込んでくる、心を苛ませる訃報。死んだ人を送る言葉を探し記し、胸の奥底で苦く重い息を溜めながら、自分の残りの時間が減って行く。砂時計のように。


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