子供にとっての「私の母親」

 ヒトの女は、ひとりの男との絆pair-bondを作る。
 今と違って太古の昔は、これより他に、女の生き方は無かった。

 ひとりの男の、女となって守ってもらはないと、性的に成熟した女は、他の男たちに襲はれる。強姦罪などは無い頃の話だ。

 避妊法も無い時代だから、「男の」女になるのがいやな現代の女性たちがやってゐる手は効かなかった。
 つまり、複数の男を手玉に取るのも無理である。

 男たちは力づくでセックスをしてくる。子供が次々と産まれてしまふ。
 ヒトの子供は産み捨てにできない。一年近くは母親が抱きっぱなしだ。さうして、産んだ母親を中心とした女性や老人の保育チームによって、最低でも十年かけてじっくりと育てなければならないのがヒトの子供だ。

 さうしないとヒトにならない。ヒト社会の一員として使ひものになる個体に育たないのだ。
 使ひものにならない個体とは、ヒトなのにヒト嫌ひ、協調すると自分が失はれるやうに感じてヒトと違ふ言動を追ひ求めるヒト、などなど―いまなら「自分らしく生きてゐるヒト」として賞賛され憧れられる個体。

 母親を中心とした保育チームから集団保育を受けること、これは、ヒトといふ霊長目ヒト科の動物として、(燕が親の作った巣の中で育つやうに)避けようのない、ヒトの子供の生育環境だ。

 一人の女が複数の男を引き寄せて、互ひに適当に張り合はせて手玉に取るのは、刑法がある時代にできることだ。
 一人の女がみんなで取り合ふほどの魅力があるなら、男たちは必ず殺し合ひを始める。
 女は、最後に生き残った男の、女にされる。

 生殖は子孫を残すために行はれる。
 けれども、女は「子孫を残そう」と頭で考へて生殖活動をしてゐるわけではない。それでも、結果的にそれ(「健全な子孫をできるだけ多く残す」こと)が目的であるかのやうな性関係を持つ。
 その性関係は、ひとりの男との絆pair-bondに基づいてゐる。

 そして、さうした絆pair-bondに基づいた性関係の持ち方をする女は、子供から見れば「私の母親」なのだ。

 母親に複数のセックス相手がゐる場合、なんの屈託もなく「私の母親」と感じることのできる子供は少ない。
 子供が「私の母親」と呼ぶ女には、「父親」と自分たちが呼ぶ男とだけセックスをしてゐてほしいのである。

 絆pair-bondに基づいた性関係を持つ母親であるときに、精神面で「健全な子孫」となる子供が育つ。
 「健全な子孫」といふ言葉はなんとく道徳的な響きも含むが、これは、進化的な淘汰の帰結だ。なぜなら、「私の母親」との愛着関係は、物理的に母親との関係から離れた後も、その子供の精神に、他者に対する無条件の信頼となって残るからだ。

 この無条件の信頼が、人間社会といふ複雑きはまりない相互依存システムの土台を築く。
 つまり、ヒトは他のヒトとの関係を、奪ひ合ひ、騙し合ひではなく、信頼を土台にした互恵関係として、作り出そうとする。
 人間社会の複雑さは、ヒトとヒトとの信頼(根拠の無い信頼)が無ければ成り立たない。

 この根拠の無い信頼は、母親との愛着関係によって、精神に埋め込まれたものだ。

 今の日本は、その根拠の無い信頼がいたるところで揺らいでゐる。もはや、証拠、つまりエビデンスのあるものしか信じられない時代が目の前に来ている。
 かうなった理由を、女が社会の土台づくりの役割に嫌気がさして来たからだと言ふと怒られるだらうが、わたしはさう思ってゐる。少なくともそんな時代が来る理由の一つだと信じてゐる。

 母親であることは、社会的にはまったくキラキラした輝きを持たない、地味どころか、人目にもつかない作業である。もちろん、感謝などはされない。英語なら、thankless task、縁の下の力持ちといふやつだ。

 何より収入も地位も名声ももたらさない。
 このnoteといふものですら、価値ある内容を金額で示すように言はれて誰も腹を立てない時代、お金にならないことに価値は無い
 真面目に母親をやることはもっともお金にならないことである。子供を東大にでも入れない限り。

 母親であることはもっともヒトらしい生き方だが、ヒトが考へだした「人間」といふ観念に照らし合はせると、まったくヒューマンではない。

 「女である前に一人の人間として生きたい」と女が思ふなら、この非人間的なタスクを放棄したくなるのはもっともだ。

 
 

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