女性の身体露出

わたしが会ってじっくり話をした男性たちのうち、女性の中に母親を求めてゐない人はゐなかった。
 と書いたのだが、自分はどうなんだらうか?

 わたしは母親との関係にはかなり苦しんだ。
 どういふ人なのかよくわからない。人からみれば「いい人」である。
 家の中でも決してわるい人ではないが、手を伸ばすと通り抜けてしまふ感じがした。血の通った身体の無い、立体の幻想のやうに頼りなかった。

 もう人生も半ばを過ぎて心理療法に凝り出した頃、「わたしの母親はわたしが嫌ひだった」と思って、大発見をしたやうな気になった。
 けれども、それはあんまり続かず、もっとよく考へると「徹底して関心が無かった」のが事実だといふ感じがした。

 母親とはだいぶ会ってゐなかったが、さういふことを考へてゐるとかへって会って確かめたくもなった。たぶん、未練が出てきてゐたのだと思ふ。

 消息を尋ねようと思ってゐたら音信不通だった姉から連絡が来た。昏睡状態だといふことで、驚いて教へられた病院に行った。
 後でわかったことだが、姉が連絡してきたのは、延命治療をするかどうかをわたしに決めさせるためだった。
 
 母は誰かわからないくらゐ痩せこけて寝てゐた。
 わたしは延命措置を断って、依頼書に署名した。

 延命しないので、今夜がヤマですと医師が言って出て病室を出ていった。
 その夜、母が亡くなる数時間前、わたしは身体中の水分がすべてなくなるのではないかと思ふくらゐ、泣いた。
 この涙は、けれども、泣いてゐるときから薄々わかってゐたが、当時、教育分析を受けてゐた・四十前の女性の分析家に、若い頃の母親のイメージを無理やり重ねてゐたことから流れ出した涙だった。
 わたしは母を失ふにあたって涙を流してゐる息子といふ役をなんとか演じ切らうとした。

 けれども、元々ゐなかった母を失ふのは難しかった。
 精神分析は分析者の中に被分析者の心を映し出すことになっている。それを置き換へといふ。分析家の女性はわたしがその人に母と女を重ね合はせたうへで、ひとりの女として恋慕してゐると思ひ込んでゐた。

置き換え〔心理〕(displacement):
ある対象に向けられている感情または態度が、
別の対象に向けられること。転移
  (広辞苑より)

 その分析家の女性は、わたしの成育歴の実際を理解しようとしないでひたすら理論を参照してゐた。そして、その女性のスーパーバイザーもなんら事態を把握できないでゐた。
 わたしは、分析的精神療法に対する夢を失って、教育分析を中断した。


 わたし自身の感覚としては、別の対象に向けるに足るだけの「元の自分の感情」がわたしの中には無い。
 それが苦しかった。

 だから、人の話を聞くやうになり、母親との葛藤が語られると、それを追体験してゐたやうだ。わたしは何年か経つと、何人もの母親から生まれた男性であるかのやうな奇妙な感覚を持った。

 それも、カウンセラーをやめると、剥がれ落ちるやうに消えていった。
 やはり、わたしには母親がゐない。

 たしかに姿は見たはずだが、触ったことがないので、ほんたうにゐたのかどうか自信が持てない。

 これがわたしの生に対する不安の根源だらうが、どういふ理由かわからないが、不安をふりはらふための手応へを、女性に求めたことは無い。
 モテなかっただけかもしれないが、そんなに女性が好きでもなかった。むしろ、男性の身体にも美しさを感じることがあったから、今若ければ、男性に愛されるトランス女性の人生を選んだかもしれない。

 さういふ心理がどこから来たのか、わたしは自分の分析を続けた。
 「いっそ自分が女になってしまはう」といふ気がどこかに、いくつになっても、あったからかもしれないと思ふ。つまり、わたしの性別のアイデンティティは、ずっと、ぐらついてゐたのだと思ふ。


 これまでに何度も書いたが、幼稚園生くらゐのときまでは女の子と間違へられることがあったから、自他を騙しおほせて女になってしまへば、「求めても得られない何か」―おそらくは母親―を求めて苦しむこともなくなると思ったのだらう。

 こんなわたしだから、現実の女性、ただ時間が経てば身体が女性と化していく女性たちには嫉妬と怒りがある。
 女になれなかったわたしの不幸も知らず、女性たちは自分が女であることを見せびらかしてをり、わたしを苦しめる。
 今でも、胸の谷間を見せたり、股ギリギリまでの短パンをはいて生足を見せたりして歩く女性には、なにか憎いやうな気持ちが起きる。

 いくつものポケットに札束をはみ出させて、貧民街をねり歩く超富裕層の人に、貧乏人が腹を立てるやうな感じ。何食はぬ顔しながら、金持ちは貧乏人が札束に向ける羨望の眼差しを蔑み、その卑しさを楽しんでゐる。

 肌を露出した女性たちは、何気なく歩いてゐるやうでも、露出した部分のことを、必ず当人ははっきりと意識してゐる。
 露出した部分にちらりと投げられる男性の視線は、どんなささいなものでも、一つも取りこぼすことなく心の忘備録に書き留めてゐる。
 (わたしも筋力トレーニングして大胸筋がたくましくなった頃は、夏ともなるとぴちぴちのTシャツが着たくなった。それを着て歩くときは、自分の胸に向けられる視線は、男女にかかはらず無意識で捉へてゐた。
 そのことから類推して、身体の線や肌を出して歩く女性は、自室に帰るまでは、それらの部分を常に強く意識してゐると思ふ)

 どうして男性は、女性の露出した部分に目を向けるのだらうか?
 見ないふりをするときも、すでに視界には入ってしまってゐる。
 それが女性の露出した身体部分の、男性に対して働く、暴力的な磁力だ。

 女性の露出した部分に目を向ける男性の、それぞれの事情は少しづつ異なると思ふ。
 わたしの場合、思はず見てしまったあとは、結局のところ、女になれなかった自分を蔑まれてゐるやうな気がする。女になれなかった男は、みんな、一生、母親の幻想を追ひ続ける。
 それを女たちは笑ってゐるのだ。でなければ、あんな格好で男の目の前に出て来るはずがない。・・・・
 そんな、とんでもない被害妄想を抱いて、勝手に腹を立ててゐる。

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