同性婚について

 同性婚と言えば、けっこうですねと言わないと偏狭で差別的な人間だと思われそうです。
 実は、少し前まで、なるべくなら心の広い人間と思われたいから、「別にいいんじゃないの」と考えることにしていました。実際、特に問題は無いような気がしていました。
 けれども、人権が何より大切だと言っている人たちが同性婚を推進しているのを知ると、ネトウヨとしてはなんとか(偏狭や差別が表に出ない形で巧みに)ケチをつけねばという気になっています。あの人たちのねらいは目先にはなくて、もっと遠大な目標、すなわち、日本の伝統的な文化のクレンジングにあると思うからです。

 同性婚した人が子供を育てることによって、家族の在り方に多様性が生まれると大学の先生が言っていたのを聞きました。
 多様性だったらなんでもいいと言っていると、伝統的な文化が壊れてしまいます。
 それでもいいと言う人は、それでいいんですが、わたしは伝統的な文化はあった方がいいと思っています。
 それは伝統的な文化が素晴らしいということではなく、例えば、管理社会とか管理教育というものと同じで、そういうものは「無くなればいいんだ」とみんなで言っているうちが花で、実際に無くなってしまうと社会も教育も崩壊してしまいます。
 管理的でない社会や管理的でない教育といったものは存在しない。
 だからこそ、自由という概念を人が共同の幻想とできるわけです。

 伝統的な文化も同じようなものだとわたしは理解しています。
 伝統的な文化が無くなると、共同幻想としての日本が崩壊します。

 いっそなくなればいいのにと思うものごとは、わたしにも、たくさんあります。改革、改善、革命と言われると、「そりゃだめだ」とは言えません。
 ただ、ある物事の良い面だけを残して悪い面だけを削除するということは、どれくらい可能なのでしょうか?
 それが気になるのです。
 だから、伝統的な文化は素晴らしいという理由で、それを守るべきだとする保守派とは違う。あんまり勢いがなくて、「そんなに性急にやっていいのかな」という及び腰が基本姿勢です。
 

 さて、結婚を同性同士でするのが同性婚なのだとしたら、根本的な矛盾があるような気がします。
 結婚というのは男女の結びつきです。
 男女だから結婚だと言えます。
 結婚は男と女を起点にしています。
 同性婚という言葉を、みなさん、平気で使いますが、わたしは、違和感がぬぐえません。ちょうど異性姉妹とか異性兄弟という言葉を聞いたときのような、「え?」という感じがあります。
 同性婚もあってもいいよねと思っていた頃も、「え?」という感じはありましたが、同性愛の人がカップルになる場合のことを仮にそう称するのだということで納得していました。
 けれども、結婚には同性同士の結婚もある、ということになると、やはり、そこまでいくと、結婚自体の概念が空洞化すると思います。
 サヨク的には、むしろ、それがいいのだろうと思います。

 わたしは、結婚という概念と、それと結びついている家族という概念を、共にステレオタイプとして残しておくべきだと思うので、同性婚の場合は、パートナーシップとやらでいいと思います。
 なんのことか意味が分かりませんが、名前はともかく、結婚している人と同等の権利や補償が与えられるということで同性愛の人には納得していただきたいです。
 そして、結婚の概念は、男女の結びつきの中に留めておいてほしいと思います。
 もちろん、パートナーシップの人が養子や人工授精の子供を自分たちの子供として育てるのも自由だと思います。

 ただ、そういう場合も、伝統文化を残しておこうとする立場から言うと、男女の結びつきによる結婚という既存の不動の概念があるから、それによっかかって変異体としての「同性両親」という例外的な関係を生み出せるのだと思います。
 つまり、教育で言えば、教育とは管理教育であるから、そのことが決して揺るがない社会においてのみ、「自由な教育」という幻も生み出せるわけです。
 教育が管理教育でなくなれば、自由な教育が生まれる余地もない。
 同じように、大多数の男女が結婚という絆を選ぶ社会でなくなれば、同性婚や事実婚という概念を打ち建てる基盤はなくなり、オープンマリッジとかポリアモリーとかも成立しなくなります。

 もうひとつだけ比喩を使えば、エアギターを楽しめるのは、実際にギターという楽器があり、それを上手に演奏する人がいて、わたしたちがそれを聴いたことがあるからです。
 ギターをすべて叩き壊して、ギター演奏者を殺してしまったら、ひとつかふたつか世代を経た頃には、エアギターを演じても、誰も拍手してくれなくなります。

 自由に生きたい人こそ、できるだけ既存の体制、そして、伝統的な文化を守ってくださいね。



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