成人向け記事「ブスと純文学」

 どういふわけか、官能小説を書いてゐらっしゃる作家の方がフォローしてくれました。
 なんでわたしのやうな石部金吉のnoteを?
 ま、営業活動の一環だらうな、わるいけどフォローバックはしないわよと書き込みに行ったら、なんか、面白そうな作品がいっぱい。

 ヤバいなと思ったけど、二度目にいったときには、フォローバックしてしまった。
 わたしはほんとに精神的に枯れ切ってるので、今さら、エッチ小説は読まないですが、若いときにこんなのがあったら読んでたかもしれません。

 二度目にコメントしたことを、この記事の下に貼ります。
 その前に、官能小説論。

 官能小説より、わたしとしては、男性には、まったくのポルノとされるものを人に勧めたいのですが、それは、性のファンタジーだからです。
 要するに、現実のいやなことを忘れて、一時でもいいから夢の世界で、生きてゐる喜びに浸りたい。
 ポルノは、あれやこれやのアトラクションとパレードで男を夢中、まさに夢の中に引きずりこんでくくれます。
 
 男性にとってポルノは、ディズニーランドなのです。
 この遊園地はもちろん頭の中にあります。だから、想像力を失はせるAVなんかより、官能小説がお勧めです。

 AV女優(俳優って言はないとだめなんですよね)がアベマTVで小賢しいことをほざくって、ほんと、ミッキーが頭をもいで、中からお兄さんが出て来るのと同じよ。やめてよ、バカ。


 これまでも何度も書きましたが、
 男性の性、男性の性の快感は、想像力の中にしかない。
 だから、男性は女性の身体を視て、性交可能になります。
 視ないとダメです。
 女性なら、暗くてほとんど何も見えなくても大丈夫なはずです。
 
 視るのは「照合」するためです。

 頭の中に、「女性なるもの」の元型、(プラトン的な)イデアといったものが組み込まれてゐて、それと照合することで欲情するやうに出来てゐるからです。
 イデアから外れるに従って、性欲を感じなくなり、やがて嫌悪だけ感じる「ブス」といふことになります。

 ブスといふ観念は、人間がヒトといふ動物として、感染症を怖れて、不潔な同類を「不可触賤民」として厳しく差別するのと同じく、本能の産物です。
 いぢめは絶対にいけない、私はいぢめなんかしない、と言ってゐる人でも、めったに風呂に入らず常に、遠くからでもウッとなる異臭を放ち、ふけをまきちらし、皮膚の垢を爪で掻きだしてゐるやうな人と親しくなるのは無理だと思ひます。
 きっと、近づいてくると、避ける。
 つまり、あなたはいぢめをする。

 男性が、ブスに感じるのは、かういふ嫌悪と質的に同じです。
 生理的なので否定しがたく、だからこそ、人間として抱き、抱かれる感情としては、とても残酷なものです。
 かうした本能的な残酷な感情を無いことにして「差別はいけない」「いぢめは絶対だめだ」と言ってゐる人たちはパリサイ人、白く塗りたる墓です。
(だから、差別やいぢめはしていいんだ、って話ではないですよ)

 女性をブスだのなんだのと男たちが罵るのも、頭の中にある「理想の女性像」つまりイデアのせいです。
 男性は、女性の身体そのものを実体として認識することは、たぶん、一生できない。
 身体に身体以上のなにかを求め続ける。

 身体の接触、身体の交合に、安らぎ、安心、親しみを求めて、しかも驚くべきことに、それを得てしまふ女性、
そんな女といふヒトには、まったく想像をつかない、観念的な性の世界に、男といふヒトは、生きてゐます。
 生きてゐるといふか、日向に出てしまったミミズのやうに、のたうち回ってゐる。

 男性が腰をふるってひたすら性交を行ふのは、女性の胎内にまでもどって、母子一体だった胎児のころ、まだ、自分を男性へと改造するホルモンシャワーを浴びて絶望の叫びをあげる前の、あの「私もあなたもゐない、すべてが、どこもかしこも、おかあさん」といふ太初に戻りたいからです。

 谷崎潤一郎氏の『瘋癲老人日記』にその様子が書かれてあります。


以下、コメントしたものからの抜粋。

わたしはバイセクシャルなので、ホモポルノも含めて
たくさん読んだし自分でも書いたけど、結局、どんどんしんどくなりましたね。
海で遭難した人が海水飲んでますます渇くみたいな。

男性として生まれたら、女性と合一して満足することは無理だといふ気がします。この感じは、乳幼児期の母親との関係に重大な欠陥があったからかなと思ってゐます。

ふつうにお母さんに育てもらった人は、母性を背景にした官能小説を楽しんで読めるのかもしれませんね。
お金持ちの人が豪華な料理の写真集を楽しめる感じかな?

いまだに貧乏でろくに食べられないで飢えて苦しむ人には、そんな写真集、絶対に見ないわ!
って思っちゃうのと似た心理かな?
ちょっと違ふけど、
とにかく、男性の場合、記憶の中に無条件で愛してくれた母親がゐるかゐないかの違ひは、性欲のあり方にひどく影響すると感じてゐます。


 
「おれは作家、あたしは小説家」と自認する人たちの「官能小説」は、読んで、後味がワルイのがいやでした。人間性のイヤな面が抉り出されてる感じで。

 文学や映画での性の扱ひは、ゲージュツ的でないといけないといふ強迫観念があって、後味すっきり、よし明日も家族のために元気に明るく働かう、といふ気持ちになるのはニセモノである、みたいな偏見や見栄があると感じます。
 
 文学をやる人たちは、エンタメに落ちる(って言ひ方がもろに上から目線)のを怖れてたところがあります。

 わたしは、芸術としての近代小説は、もう、その役割を終へたと思ってゐるので、後は、文学なのかどうなのかを気にしないで、自由に楽しく書いていいんぢゃないかと思ってゐます。

コメントからの引用はここまで。


 芸術としての近代小説といふのは、純文学と呼ばれる分野で、大衆文学とかエンタメ小説などと区別されるものでした。
 その区別は、もう意味が無いと思ひます。

 純文学であるためには、書き手がとにかく陰キャでないとだめでしたが、今は、そんな枠を自分たちで嵌める必要はなく、
読んで楽しい、
読んで「よし、明日も生きるぞ」とか
「日本をよくしよう」とか
「世界平和のためにがんばろー」
と思ふやうな、小説、ライトノベル、そして、ポルノでいいと思ひます。

 自分の書くものをブンガクにしたい人は、いっしょうけんめいハルキ文体にしてるけど、それも要らんと思ひます。

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