頭がいい人の憂鬱

 頭がいい人は、どこかしら、ずるいはずだ。
 なぜなら、状況を的確に把握するから、自分がどんな言動をすれば一番得かが計算できる。
 それなのに敢えて損な選択をするときは、どうしても苦しみを伴うだろう。

 また、損な選択を避けて、どこまでいっても小賢しく生き続ける頭のいい人は、だんだんと性格がひねくれて来るかもしれない。
 逆切れして「私だけじゃない、人間はみんなずるい」と言い出したりする。
 けれども、ずるく生きるには、かなり頭がよくなくては無理なのだ。
 だから、世の中には、自分のことを正直者の善人だと信じている人が多いようだ。
 そんな善人にはなれないまま、自己嫌悪がひどくなると、ずるい自分を正当化したくなった頭のいい人は、やがては性悪説に行き着くことになる。

 けれども、現実は、性悪説か性善説かと二分するは複雑すぎるようだ。
 ものを考える人であるのに、自分が損をするとわかっていても、人のためとか社会のためにずるく立ち回るのを拒むことがある。
 それを見て、ああ、やはり人間性の根本は善なのだと思うとしたら、それも早まっている。 
 そうやって自己犠牲する人がいる、そしてそういう人を上手に利用する人がいる。その両方がいて、わたしたちが現に暮らしている、今の社会が成り立っている。
 わたしたちは、自分より他人や社会のことを考えて生きている人たちを踏み台にしている。わざとそうしているとわかるくらい頭のいい人は多くないが、ともかく、自分のことを二の次にする人たちがいるおかげで、自分を第一にして好きなことができる自由と民主主義の社会を作っている。

 善悪は白黒のように判別することは無理だ。自分のことを善人だと信じ込めるくらいの、本物の悪人である人も少なくない。そこまでうがって理解できるのが、頭がいい、ということだとわたしは思っている。
 だから、頭がいいと、必然的に、ややペシミスティックである。それよりさらにわるいのは、自己嫌悪から逃れられない。
 そうすると、しょっちゅう明るい顔ではいられない。
 ひとりになると、憂鬱な表情で考え込んでいることも少なくないだろう。

 今の日本は、鬱病になるのがさもよくないことだと思われている。だいたい鬱病ということで「病気」あつかいしている。
 このあたりは、一度、きちんと整理した方がいいとわたしは思う。

 大鬱病は確かに本物の精神病、つまり脳病だと思うが、暮らしの中のストレスで鬱状態になるのは、薬物療法の対象ではないと思う。
 脳病ではない鬱病とは、生きる上での悩みや苦しみ、つまり、生きづらさだ。人によっては死にたくなるくらいつらいだろう。だからといって脳病とするのは間違っていると思う。つまり、病気と考えて精神科医に薬をもらいにいくのはお門違いだと思う。

 かつての日本人にとっては、生きることはなにかしら辛くて、日々の暮らしの中で鬱状態でないほうが病的だった。
 
 わたしが子供の時に老人から聞いた話。
 敗戦直後、或る戦闘機を作る航空機製作会社で働いていた。占領軍がやって来て、アメリカ兵が飛行場を闊歩するようになった。米兵が群れると、必ず、誰かがギターを持っていて、ジャカジャカと鳴らす音に合わせてみんなで嬉しそうな顔をして踊り出す。当時はまだ青年だった老人は、いつも底抜けに明るい米兵たちを見て、アメリカ人はそろいもそろってみんなバカなのかと思ったそうだ。
 
 多少ともものを考えると、笑ってばかりはいられない。もっと頭を使っていると、どうしても鬱的になる。これは、この現実世界を生きる人間としては自然なことだ。
 今の日本のように「明るく元気なことが人間のデフォルト」とするのは、要するにアメリカンカルチャーに過ぎない。これを信じてアメリカナイズされているのは、世界でも、日本と韓国くらいだろう。ヨーロッパ人はあいかわらず暗い顔をしている。そして、カメラを向けると歯を剥きだして笑うアメリカ人を心底バカにしている。

 かつての日本では、庶民の流行歌というと、悔恨の酒、悲しい酒、報われない恋、日陰の女、なにをやってもダメな男の転落の人生などを、しめっぽく、なんの救いも暗示しないまま、情感たっぷりに歌うものがほとんどだった。
 童謡、唱歌ですら、日没の美しさはあるにしても、どこかしらもの悲しさ、諸行無常、苦しみを避けられない人生の現実の影がさしていた。

 戦後、アメリカに負けたとたん、『リンゴの唄』のような明るい狂人のような歌が出て来た。
 その後、狂って笑うような歌が日本の流行歌に浸透していった。
 鬱状態の翳りもない歌は、何も考えていない人の歌である。

 やがて、「鬱状態は精神科医から薬をもらわなければならない精神病」という認識が、アメリカの製薬会社から、日本に導入された。
 陰謀論めくが、そのときに行われたのが、日本にまだ残っていた演歌などの鬱状態を歌い上げる日本の文化の改変である。

 鬱々とした気分に浸って泣きながら歌を歌っている場合ではない、それは鬱病だ。
 はやく、心療内科(の看板を掲げた精神科)にいって薬をもらわなければいけない、と日本人に思わせる必要があった。
 そして、それは成功した。

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