三熊野詣

 わたしは、今になって三島由紀夫氏の作品を読み返している。
 十代のとき、三島由紀夫氏の作品の言葉の海に浸りこんだような思いがある。実際は、浜辺あたりで寄せる波に脅えながら、足先を伸ばしたくらいかもしれないが、とにかく、よく読んだ。

 年老いて三島由紀夫氏の作品を読み返してみると、その頃の自分に日本語の能力が(今にも増して)欠けていたことがわかった。
 
 明治になって日本語の文芸にも西洋流の小説が登場し、それは、やはり文語で作るには無理で、言文一致体が工夫された。近代的自己というやつは、文語では表現できないからだ。

 ここで、わたしたちは勘違いしてしまった。言文一致体で書かれているから、「わたしは小説を読める」と思ってしまう。
 けれども、言文一致体を作り出した鴎外やら漱石やら二葉亭四迷といった人々は、漢籍和文を身体化したうえで西洋語にも精通した世代だった。英語の作品を読むには英語の知識がいるように、彼らの小説を読むには、伝統的な日本語のスキルが身についていなければならない。

 文明開化を迫られて以来、洋服を着て洋間に暮らすように、日本語も、近代社会に適応できる文体を求められ、いわゆる文豪たちは日本語と西洋語の軋轢の中でもがき苦しんだ。やがて、その苦しみを自覚しない世代にとってかわられて、ついには、漢籍和文という根や幹のない、ただ花だけの日本語になった。
 甘い香りのするきれいな花を、お気に入りの花瓶に入れて眺める。文学も鑑賞の対象となったのだ。

 そういう時代に、三島由紀夫氏の作品だけが、日本語という樹齢数千年の大樹の幹も根も維持したうえで花を咲かせるものだった。その作品の文体が「きわめて人工的な美」に満ちていると評されるのは、皮肉なことだ。
 桜の木の下には死体が埋まっていると言われると、あの花の美しさの理由がわかる気がする。そのように、日本語の大樹の根が張る日本文化には死も残酷も虚無も豊富に埋まっていて、伝統とつながった日本語を用いる文学では、そこから栄養を得て花を咲かせることができた。

 すでに文学から生み出される花がことごとく、清潔で安全な造花となった時代だから、かえって、三島由紀夫氏の文体が「自然でない」「人工的で」「計算されつくした」ものとして読まれることになったのだ。

 わたしは二十歳を過ぎてから三島由紀夫氏の作品を読むのはやめた。理由は、『金閣寺』の主人公と同じで、「生きようと思った」からだ。三島由紀夫氏の作品を読んでいると、「生を耐えるには狂気か死」しかないように思えた。さもなければ、認識によって耐える、つまり、自分も小説を書くしかない。

 わたしにはもちろん才能がなかった。そして、死にたくなかったわけではないが、死ぬのは怖かった。それで、生きることにして、三島由紀夫氏の作品を処分した。
 
 今、再読しているのだが、以前にはわからなかったことがわかるような気がすることが多い。どうしてそう感じるのか。
 ながく生きて経験を重ねたことは、文学の読解にとっては、なんの意味もないと思う。
 三島由紀夫氏と同時代の作家からよく出た批判として、三島由紀夫氏の作品は少年文学だというものがあった。少年文学とはどういう意味かと思ったら、「人生経験が生かされていない」「現実生活の実感がない」「美の裏側にあるどろどろした現実を見ていない」というあたりのことらしい。人生経験と文学に関係があると思う人は、おそらく文学で人生の勉強をしようと思ったのだろう。それなら精神科医の本でもよんだほうがいい。

 年をとって三島由紀夫氏の作品を再読してみたら、以前とかなり違った読み方ができた理由。それとして思い当たるのは、二十歳を過ぎてから、少しだけ漢文や古文の勉強をしたことだ。文語体が書けるようになりたいと思っていた。

 そのことが影響しているような気がする。たとえば、『三熊野詣』は、和歌や能楽を知らないと読んでもよくわからないと思う。
 また、この作品は、息苦しいくらい(或る無名の人の書評にあった表現)の敬語の連続である。敬語を使えるかどうかは、日本語が使えるかどうかの一つの基準だ。そもそも日本語に敬語があるのは、日本語が皇室文学に根を張っているからだ。

 三島由紀夫氏は、太宰治氏が、一世を風靡した『斜陽』の中で、華族と称する登場人物に「おかあさまが何をなさっているかあててごらんなさい」というような奇怪な敬語を使わせていることを批判している。太宰治氏は天才であることをいいことに、日本語をぞんざいに、いわば太宰的な着崩れを売りにするような文体を用いてずぼらな読者を増やし、その後の日本語が崩れていくきっかけをつくった作家である。きっと今でも、太宰治氏の作品を読んだ若者たちは、自分の生きづらさを人に訴えようとパソコンに向かって小説めいたものを書き始めるのだろう。あんな文章でいいのなら、小説は誰でも書けると思うのは当然だ。(ただし、太宰氏の「あんな文章」は太宰氏のようなとんでもない天才にしか書けない)

 太宰氏が『斜陽』を書いた年齢と同じころに、三島氏は『三熊野詣』を書いている。深読みすると、敬語はこう使うんだ、そして、敬語を使えるのはおれでおわりだというメッセージをこめていたような気もする。

 今回、読み直していくなかで、『三島由紀夫最後の言葉』と題されるインタビューで語っていることもわかるような気がしてきた。このインタビューは自決の一週間前に受けたものだ。そこで、三島氏は「今後の文学について一言」と請われて、つぎのように語っている。「安部公房」というところは「村上春樹」としたらわかりやすいだろう。

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ぼくは自分をもうペトロニウスみたいなものだと思っているんです。おおげさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのゼネレーションでおしまいだろうと思うんです。日本語の古典のことばが身体に入っている人間というのは、もうこれからは出てこないでしょうね。

未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。安倍公房なんか、そっちへ行っているわけですが、ぼくは行けない。

それで世界中が、少なくとも資本主義の国では、全部がおんなじ問題をかかえ、言葉こそ違え、まったく同じ精神、同じ生活感情の中でやっていくんでしょうね。

そういう時代が来たっていいけど、こっちは、もう最後の人間なんで、どうしようもない。

 
 
 

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