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淡路島の社を巡りて~第肆社目 佐野八幡神社(旧津名町佐野村)

※2020/01/04加筆・修正

【由緒・略歴】

創立年月不詳。明治六年村社格に加列。御社は往古、石清水から移すという。
境内入口の石鳥居の銘に元禄十二(1699)年六月とある。
相殿に配祀した大年神・大己貴神・少彦名神三柱は本村字神田から、事代主神は同村高屋から、明治四十三(1910)年四月十八日に合祀した。
拝殿の棟札に曰く「時ニ安政三辰年(1856)八月吉祥日棟上」

古来から佐野町一円の氏神として崇敬が厚く、毎年2月と9月に大漁際が行われていたらしい。
元々は八幡社と別当八幡寺があった。明治の神仏分離令で別れたと思われる。八幡寺は浄満寺と合併(明治39年)し、現在の八浄寺となる。

イラスト

研究資料を参照し配置図にしてみたが、現在の八幡神社がこの場所のままならば、八幡寺の跡地は海浜になるだろうか。資料の縮尺距離が分からないので判断できない。
その他ここから判ることは境内に入って正面に舞殿がある。現在、舞殿は無い。その後ろに石垣その上に拝殿・本殿があった。本殿は銅板葺きだったようだ。境内社2座。奥にお堂のような建物があるが、現在もあるかは分からない。八幡寺側に御旅所がある。
八幡寺は茅(または藁)葺きである。


【意匠・彫刻】

作者不明だが、良い彫物だと思います。
拝殿狭間の龍が見えにくいですが、江戸末期だから南龍なのだろうか。

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狛犬の台座には「天保九年戊戌之歳十二月吉日」とある。

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【祭礼・檀尻】

10月13日に秋季例大祭を行っている。
現在だんじりは小田前1播しか出ていない(2018)。
最盛期には、生野組(生穂近江ヶ原と佐野畦ヶ内)・小田前・北浜・南浜・たから組(中浜と梅里が合併)・小井・柏原・井筒の8播が出ていたという。
佐野は生穂賀茂神社の氏子でもあり、賀茂神社の春季例大祭には生穂10播に加え、(生野は生穂にカウント)佐野7播も奉納されていた。

佐野の檀尻が次々と売却された理由は、昭和40年~50年頃の約10年間が一度も道路使用許可が下りなかったことである。この当時は津名町中の檀尻の許可が下りなかったようで、佐野もこの時に売却されたもの・その後に許可が下り始めたものの既に町内会に檀尻を奉納・維持する力がなくなっており売却されたものがある。
地元生穂においても、この当時に売却の話が上がった町内会もあったようである。詳細は別途、檀尻の話を纏めたい。

佐野の多くの檀尻は既に売却されたようで、3・40年前にたから組(梅里と中浜)は志筑(北濱?)に売却されたと聞いたことがあるが、現在の檀尻かどうかは不明。

佐野八浄寺

佐野八幡社の海浜にあり平松山八幡寺と称されていたが、明治39年11月現八浄寺にあった円融山浄満寺と合併し八浄寺となった。八浄寺は「淡路巡遷妙音弁財天(通称:廻り弁天)」と関わりが深いので簡単に話を紹介する。

昔、佐野に城喜代という目の視えない人がいた。ある日、夢に弁財天が現れたので、高野山で僧になった兄に相談しに行ったところ、それはなにかの思し召しだ、と弁財天の掛軸を貰い受けた。城喜代はお堂を建てて納め、日毎その掛け軸を拝んでいたところ目が視えるようになった。これは御利益がある物だと掛け軸をお寺に寄進し、地元では参拝者が列を成した。この話が町に広がり「当寺もあやかりたい」との申し出が多数集まり、掛け軸を1年毎に貸し出すようになった。これが「廻り弁天」の始まりである。尚、洲本の厳島神社が”弁天さん”と呼ばれているのは、この掛け軸が現在は厳島神社にあるからだという話がある。
廻り弁天の詳しい話は別の記事に纏めたいと思う。



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