プラットフォーム事業者と「表現の自由」:アメリカの最新裁判に迫る!
ゆっくりしていってね!
TwitterやYouTube、Facebookといった大手プラットフォーム事業者による自主規制やコンテンツ・モデレーション(※1)と、ユーザー側の「表現の自由」「知る権利」の関係の衝突がしばしば話題に上っているわね。
この問題については、いわゆる表現の自由界隈の中でも見解が分かれているわ。次の2つが代表的よ。
①民間企業が何をどういう順番で自分の店先に並べるか、あるいは並べないかは、その民間企業の自由である。国家が介入するのは、私的自治の原則への違反であり、民間企業の管理権・編集権の侵害である。
②大手プラットフォームは、現代の表現の場を寡占的にコントロールしているため、ユーザー側の「表現の自由」「知る権利」が不当に侵害されないよう、国家は然るべき制約を課さねばならない。(民間企業の管理権・編集権は必ずしも優越的立場にない。)
これはけっこう皆さん悩んでしまうんじゃないかしら?
まず、「プラットフォーム事業者の管理権」と「ユーザーの表現の自由・知る権利」の憲法論を整理するわね。
それから、次に今まさにアメリカの議会と裁判所で起きている、
超巨大モンスターバトル:
保守派議員&州司法長官 vs 大手プラットフォーマー連合軍
を紹介させて頂くわ!
企業の自由 対 個人の自由
"普通は"①の私的自治の原則が優先というのが概ね正しいのよ。例えば、ある本屋さんにおいて、どの本をどういう感じに並べるか、あるいは並べないかは、本屋さんの自由よね。
また、出版社がある本を出版し、別の本を出版しないと判断するのも、新聞社が何をテーマにして記事を掲載するか掲載しないかも、自由でしょう。
例えば、私がマンガを描いて集英社に持ち込んで、その結果、「うーん、掲載できないなあ。」と言われたとするわね。それに対して私が「事前検閲だ! 集英社によって、俺の表現の自由が侵害された!」と文句は言えないわ。(厳密には、言ってもいいけど無視されるでしょう。)
でも、同じ判断をTwitterやYouTube、Facebookといった大手プラットフォーム事業者に当てはめて良いかは、少なくとも憲法論的に自明ではないわ。色んな意味で"普通"ではないから。1つの本屋さんや1つの出版社とは文字通り桁が違う。
例えば、「何をどう掲載するかしないかは企業の自由だよ」論を全面的に認めるなら、原理上、大手プラットフォーム事業者にとって都合のいい政治的見解だけを表示し、対立する政治的見解は表示しにくくして、かつ適宜「利用規約違反」として政治家やその候補者、支持者を追い出すことも法的に正当化されるわね。
「それで良いんだ。それが自由ってものだ」という人もいるかもしれないわ。
けれど、企業の恣意によって言論空間をいくらでも歪めていい(任意のコンテンツ・モデレーションをしてもいい)って決め事にすると、「思想の自由市場において民主的な議論を行い、意思決定することが正しい」という民主主義社会の建前が崩れるわ。(建前論に過ぎないとしても、そう堂々と無視したものかって話よ。)
実を言えば、日本において、「民間企業の自由」に政府が立法を通じて介入しているケースは、現在も有効な法律として存在するわ。
具体的には、ヒトシンカさんが最近のnoteで放送法4条を例示し、「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」等が規定されていると指摘し、次のように述べているのよ。
そもそも「企業の自由権に国は介入してはならない」の一言で基本的人権に関わる問題が片付くなら、上記放送法に加え、男女雇用機会均等法や障害者雇用促進法も「企業の自由の侵害だ。男女で待遇差をつけたい企業の思想信条を大事にしろ。」と言わざるを得ないでしょう。
また、殺害予告や恐喝等で私たちの生存権や財産権が危機に晒されていても、それが私人と私人の間のことであれば、国は私たちの生存権を守るために警察を組織して対応にあたる必要もなくなっちゃうわ。
このように、企業側の自由とユーザー側の自由が対立する場合、「政府対私人ではなく、私人と私人の問題だから国は介入しない(介入してはならない)」というシンプルな解釈だけでは人権が十分に保障されないのよ。
特に「表現の自由」「知る権利」は、経済的自由よりも優越するとされているから、更にハードルが高い。
もちろん、基本的人権に関する憲法上の規定を、どこまで私人に適用するかについては、基本権保護義務論の他にも様々な学説があるわ。超・究極的には「好みの問題」ではあるでしょう。
たとえば、事業者側の無制限な恣意を許す訳ではないにせよ、「では、どこまでなら制約して良いか?」という問題には明確な答えがないわ。1から10まで縛ったら、「管理権は一切ない」「企業側がコンテンツを選別又は配列・ランク付けする表現の自由も一切ない」という話になっちゃって、それはそれで不健全よ。
でも、繰り返しになるけれど、「大手プラットフォーム事業者の管理権・編集権が絶対的に優先であり、ユーザー側の表現の自由・知る権利は一方的に制約されうる」は、憲法論上、少なくとも自明に正当ではないわ。
異論は様々あるものの、大手プラットフォームに関しては、世界的に「要検討」の箱に入れられてるのは確かよ。結論がどこへたどり着くかはともかくね。
日本でも、総務省が「プラットフォームサービスに関する研究会」を定期的に開催し、業界規制の必要性やその内容について検討を重ねているわ。
アメリカで起きている超巨大モンスターバトル
とはいえ、この問題は、私たち日本国民とは全然関係ない所で決定されそうよ。
そもそも例示した大手プラットフォーム事業者、ぜんぶアメリカに本社があるし。
「日本における憲法論」も大事かもしれないけど、SNSプラットフォームをMADE IN USAに依存している私たちは、アメリカの動向に大きな影響を受けるわ。
アメリカでのプラットフォーム事業者の法的な位置づけに関する争いを説明するために、まず時系列に沿ってプラットフォーム問題の背景を説明させて頂くわね。
アメリカにおけるプラットフォーム事業者規制論の経緯
始まりは2016年頃。表現の自由・知る権利の観点から、大手プラットフォーム事業者に国家的な規制をかけようという話が、アメリカでじわじわ現れてきたのよ。
アメリカの一部の共和党支持者および共和党議員から、TwitterやYouTube、Facebook等が保守派である彼らのコンテンツをリベラル派のそれよりも不利に扱っていると主張しはじめたのよ。
あいつらリベラル派の味方ばっかりしやがる、と。
2020年には、それが頂点に達したのか、当時のアメリカ大統領、ドナルド・トランプさんによって大統領令13925号「オンライン検閲の防止(Preventing Online Censorship)」が発令されるわ。
これ自体はろくに効力を発揮しないまま、後にバイデン大統領が取り下げるるんだけど、「保守派の不満」が爆発した感はあるわね。
そして、2021年1月6日から12日にかけて、後に「トランプ大統領のデプラットフォーム(deplatform)」と呼ばれる事象が立て続けに発生するわ。
まず、1月6日にトランプ大統領のTwitterアカウントが凍結。。理由は暴力賛美ポリシー違反。そして、翌1月7日にFacebookアカウントも凍結。更に、ネット通販サイトのShoipyからトランプ公式グッズ販売アカウントが凍結される。1月12日には駄目押しでYoutubeアカウントも凍結。
トランプ支持者が保守派のためのソーシャルメディアとして活用していたアプリ「Parler」が、Appleストア、Google Playストアから追い出されたわ(※現在は復活している)。また、Parlerがデータを置いておくサーバーとして使っていたAmazonのクラウドサービス、AWSからも締め出しを喰らった。
「出来る」とはいえ、「やる」かしらね、普通!?
完全に宣戦布告じゃねーか!!
――というわけで、いくら大手プラットフォーム事業者が超巨大資本を有するといっても、アメリカ大統領に対し、ここまで露骨かつ徹底的な「オンライン言論空間からの追い出し」をやったことで、さすがに各国の首脳や閣僚、欧州連合関係者もザワザワし始めるわ。
「俺たち大手プラットフォーム事業者は、世界中のどの政治家、どの活動家に対しても同じことが出来るぞ」という事実上の脅しか? と思われた訳ね。
当時の報道記事を引用しましょう。
そもそもアメリカには通信品位法230条があるんだから、基本的に第三者が投稿したコンテンツ(この場合はトランプが投稿したツイートやFacebook記事、YouTube動画等)にプラットフォーム事業者は法的責任を負わないのよ。放置していても原則問題はなかったと推察されるわ。
まあ、トランプさんを追い出した行為は、一般のトランプ支持者及び保守派から見れば「ふざけんなよ!」だし、リベラル派は概ね歓迎しつつも、一部は単純に同調せず、「えっ、トランプは嫌いだけど、そこまでする? 正気?」という慎重な姿勢を見せたわ。
これらの帰結として、アメリカではまずフロリダ州とテキサス州で、プラットフォーム事業者規制を行う州法が可決される流れへと進むわ。
これが本記事の核心となるわ。それぞれ説明していきましょう。
フロリダ州法 SB7072が可決、そして違憲判定
トランプ大統領のデプラットフォーム騒動から約半年後の2021年5月24日に「フロリダ州法 SB7072 」がフロリダ州議会を通過し、ロン・デサンティス知事が承認したわ。
当該州法の主たるところを言うと、「一部例外を除き、選挙候補者をデプラットフォームすることはもちろん、コンテンツ・モデレーションをしてはいけない。やったら罰金。」(※全ユーザーではない。あくまで選挙候補者)と「どういう基準でコンテンツ削除やアカウント凍結をやっているのか透明性レポートを提出せよ。」ね。
他にもたくさんあるけど、詳細は上のリンクから原文を読んで頂戴。
ちなみに、承認したロス・デサンティス知事は、2024年大統領選に出馬すると予想されていて、かつ「賢いトランプ」「トランプ2.0」などと呼ばれているゴリゴリの保守派・共和党人間さんよ。
知事が承認したから、2021年7月1日から施行される予定だったんだけど、NetChoiceが原告になって、秒速でフロリダ北部地区連邦地方裁判所に提訴したわ。
NetChoiceなんて聞いたことがない――ええ、それはそうよね。
NetChoiceとは、AmazonとGoogleとMeta (Facebook)とTwitterとPayPalとeBayとYahooとTikTokとAlibabaなどで構成されているスーパー・ロビイスト団体よ。
まあ、「資金力と人的資源に一切の不足なし!」って感じね。これより強いロビイスト団体ってあるのかしら?
NetChoiceが提訴したところ、「一旦、その州法(SB7072)は違憲の可能性が高いから仮差し止めね!」という判決が下ったわ。
もちろん控訴されて、今度は第11巡回区控訴裁判所に持ち込まれたんだけど、そこでも2022年5月23日に「フロリダ州法 SB7072は違憲であり、そのまま差し止め命令を継続してください。但し、負担の軽い開示請求周りは正当性を認めます」という旨の判決が下されたわ(NetChoice v. Moody, 2022)。
次は連邦最高裁だけど、それはまだ審議も始まっていないわね。
フロリダ州法 SB7072について、今のところ裁判では、選挙候補者に限るとはいえ、「(一部例外を除き)デプラットフォーム一切禁止」&「コンテンツ・モデレーションに大幅な制限をつける」&「いずれも違反したら巨額の罰金」は国が民間企業に介入しすぎであるという判断をしているわ。
また、そもそもの問題として、フロリダ州法 SB7072は、連邦法である通信品位法230条に反するとも指摘されているわね。
小難しいからちょっと説明するわね。ゆっくりいきましょう。
「当該素材が憲法で保護されているか否かを問わない(whether or not such material is constitutionally protected)」は、アメリカでは修正一条が定める「表現の自由」において、例えばヘイトスピーチを行う自由なんかも保障されているわ。(近年少し怪しいけど、本題じゃないからさておき。)
でも、通信品位法230条では「(わいせつ等その他の好ましくないものとみなす)表現物へのアクセスまたは利用を制限するために善意で自発的に行われる行為(any action voluntarily taken in good faith to restrict access to or availability of material that …)」は、責任を問われないと明記しているのよ。
だから、Twitter社は、表現の自由で保障されているはずのヘイトスピーチ投稿について、削除又は非表示、検索で下位に表示されるようにするといった対応をしても、それが善意で自発的に行われている限り、法的に問題はないのよ。
そして、更に「本条と矛盾するいかなる州法または地方法の下でも、訴因を提起することはできず、いかなる責任も課されることはない。(No cause of action may be brought and no liability may be imposed under any State or local law that is inconsistent with this section.)」とあるわね?
フロリダ州法 SB7072は、連邦法である通信品位法230条と矛盾する州法とも読めるわ。したがって、上記規定に違反していて、優先順位からいっても無効だと裁判所は判断したのよ。
さらに裁判所は、ここまで徹底したデプラットフォーム、コンテンツ・モデレーションの規制は、かえって思想の自由市場を損ねるリスクにも言及したわ。不快だったり低品質だったりするコンテンツが「平等に」並ぶことによって、ぐちゃぐちゃの落書き場所になって、ユーザーも広告主も離れてしまい、機能不全に陥るリスクも十分考えられると。
また、冒頭でヒトシンカさんの論を引きながら、日本の放送法4条を紹介したけれど、アメリカでの同趣旨の定めである「公平原則(fairness doctrine)」は、1987年にレーガン大統領によって撤廃されているのよね。
2つの判例でも、アメリカにおける「表現の自由」は、テレビ局や出版社、報道機関の「編集上の判断」や「編集上の裁量権」を含むという解釈が支持されているわ。
1つは、Miami Herald v. Tornillo(1974)で、ある新聞社(Maiami Herald)が発行している新聞の社説で批判された政治家に、「俺からの反論を記事として掲載しろ!」と求められ、そんな強制は違憲だと提訴した事件よ。結果、「新聞社側の自由であり、公権力によって反論記事の掲載を強要されることはない」と判示されたわ。
もう1つはPacificGas & Electric Co. v. Public Utilities Commission(1986)ね。ガス会社さんが「お前の会社を批判するチラシを請求書に同封しろ」と求められ、違憲だと訴えた事件よ。これも同じく、「ガス会社の自由であり、公権力によって批判的なチラシを同封するよう強要されることはない」と判示されたわ。
裁判所は、プラットフォーム事業者によるデプラットフォームやコンテンツ・モデレーション行為の評価について、これらの判例を援用した、と言えるでしょう。
まとめるとこんな感じ。
じゃあ終わり――という結論なら、こんなnoteは書いてないし、そもそも裁判が難しくなってないのだわ。
とてもややこしいことに、ほぼ同趣旨どころか、「選挙候補者」ではなく「全ユーザー」を対象にした点において、より範囲の広いのテキサス州法が、第5巡回区控訴裁判所で「合憲」と判示されたのよ。
個人的に支持したくなる話とはいえ、それはそれで、ややこしいけどね……。
テキサス州法 HB20が可決、そして合憲判定
こちらも、初めに時系列を語っておくわね。
2021年9月9日に、テキサス州法 HB20が可決されたわ。グレッグ・アボット知事が承認。しかし同様にNetChoiceから提訴されて、2021年12月1日、地裁でいったん仮差し止め命令を受けるわ。そして、被告となったパクストン州司法長官が控訴。
2022年9月16日、第5巡回区控訴裁判所で逆転の「合憲」判定。仮差し止め命令は解除されて、テキサス州法 HB20は有効となったわ(NetChoice v. Paxton, 2022)。
判決文の冒頭(要旨)を見てみましょう。
フロリダ州法を扱った第11巡回区控訴裁判所では、「プラットフォーム事業者」を、民間のテレビ放送局や出版社、報道機関と同等であるという前提を採用していたわね。
そして、彼らに「編集上の判断」を行う権利を判例上も認めてきた以上、プラットフォーム事業者にも同じ権利があると考えた。
一方で、テキサス州法を扱った第5巡回区控訴裁判所では、プラットフォーム事業者は、テレビや新聞などの報道機関や出版社とは異なり、電話会社や銀行(それから伝統的には電車やタクシー会社)と同等の「コモン・キャリア」であると捉えたのよ。
後述するけど、民間企業が管理・運営していても、公共性の高い事業形態(コモン・キャリア)に関しては一定の制約が合憲だと認められるのよ。
そして、更に言論の点に着目して、TwitterやFacebook、YouTube等は実質的な「パブリック・スクウェア」(公の場)だとみなすことができ、場の管理権があるとしても、一定の制約を受けうるとしたわ。(特にテキサス州法HB20はその一定の範囲内に収まると判断した。)
また、通信品位法230条も含めて、さまざまにNetChoice側が述べる見当違いの詭弁(whataboutisms)は成立しない旨を指摘しているわ。
これらについて、論点を整理しながら見て行きましょう。
論点①:コモン・キャリア
「コモン・キャリア」だとするなら、これまたアメリカの判例上、「顧客の差別的取り扱い」を防ぐ目的なら、制約を加えても良いとされるのよ。
日本でも同じよ。たとえば、民間企業が運営する電車であっても、そう簡単に「乗車拒否」とか出来ないわよね?
民間企業としていくら「私的自治の原則」を持ち出しても、「ライバル会社に勤務する社員には、うちの電車の路線は使わせない」とか「犯罪の前科のある人は、当路線をご利用できません」みたいな決まりは、仮に作ったところで無効よ(鉄道事業法参照)。
例を足すなら、民間の電気通信会社も同様ね。上記のような事はもちろん、「あなたは年収が高いから、通信料金も高くします」とか「うちの会社が支持していない政党の関係者については、ウザいので回線を切ります」とか全く認められないわ(電気通信事業法参照)。
いくら私人である民間企業がやっていようが、公共性の高い事業については、顧客の不当な差別的取り扱いを防ぐために制約を課すし、それは「合憲」ですってことよ。
まあ、これを制約しなかったら、国民の生活がめちゃくちゃになってしまうのは明らかよね。一方的に搾取されたり、追い出されたりしても何も出来なくなっちゃう。
コモン・キャリアだとすると、アメリカ裁判における長年の判例の蓄積があるから、合憲だという理屈が通るわ。(「コモン・キャリアの原則(Common Carrier Doctrine)」と呼ばれているわ。)
論点②:パブリック・スクウェア
更に言論に近い話で、デジタル上とはいえ、TwitterやFacebook、YouTubeといった場所がパブリック・スクウェア(公の場)である点も指摘されたわ。裁判所は、まずPruneyard Shopping Center v. Robins(1980)の判例を挙げた。
この事件を簡単に説明するわね。高校生たちがショッピングモールにテーブルを置いて、署名活動をしていたのよ。でも、ショッピングモール側に許可は取ってなかったから、怒られてしまって追い出されたわ。
まあ、日本人的な感覚だと、ちょっと「それはそう」と思うところだけども……。
しかし、これを不服とした高校生たちは提訴。ショッピングモール側は「うちの私有地なんだから、ここで誰が何をしていいかは、うちに裁量権があるはずだ」と抗弁したわ。
けれど、連邦最高裁は、ショッピングモールは不特定多数の人が自由に出入りする「公共性の高い空間である」と位置づけて、単純には受け容れなかったわ。
また、高校生たちが署名活動が、特定の店舗営業や人の往来の邪魔になる位置ではなく、合理的に秩序を守って行なわれていた点も評価した。
その結果、高校生たちのショッピングモール(私有地だが、実質的なパブリック・スクウェア)における言論の自由を、参加した裁判官さん全員一致で支持したわ。
話をテキサス州法に戻すと、この判例に基づいて「プラットフォームからの排除は、パブリック・スクウェアからの排除に等しい」とし、さらに裁判所はNetChoiceを追撃するかのように、
「そもそもTwitterとかFacebookとかさあ……自由な言論がやりとりできるデジタル空間だとか自称&宣伝してるよねえ……? Twitterの鳥のロゴは「言論の自由の翼」だとか何とか? こっちは全部確認してるし、資料として保管してんだよ。このへんってさ、つまり、パブリック・スクウェアに少なくとも準ずる存在だと自認してると読んでいいよなァ……? それとも、裁判沙汰になって都合が悪い時だけプライベート・サークルだとでも言うつもりか?」
との旨を指摘。(※かなり私の解釈を入れて、大意として書いているわ。)
また、既存の連邦最高裁判例でも、「プラットフォームは現代のパブリック・スクウェアである」とされた事案を挙げているわね。
この「コモン・キャリア」論と「パブリック・スクウェア」論で、かなりの窮地に――というか、だからこの控訴裁でNetChoiceが負けたんだけど。
論点③:コンテンツ・モデレーション等は「言論」か?
NetChoiceは、実施しているデプラットフォームやコンテンツ・モデレーションの結果は、「自分たちの言論」であり、それゆえ「言論の自由」で保護されると主張したわね。
けれど、この主張って、実はプラットフォーム事業者にとっては都合が悪い面を含んでいるのよ。
それは通信品位法230条との関係よ。
ここで重要なのは、230条が支持する「第三者(個別のユーザー)が投稿したコンテンツについて、プラットフォーム事業者は責任を負わない」という免責よ。
なぜ責任を負わないかというと、連邦議会の判断によれば、「プラットフォーム事業者が第三者の人々による言論をコンテンツとして反映する時は、場所を提供しているだけであり、プラットフォーム事業者として"言論を発表している"(speaking)とは言えない」からよ。
連邦最高裁もこれを支持していて、Zeran v. Am Online, Inc.(1997)が代表例とされているわ。
「場所の提供だけ」なら、それは言論(speech)じゃなくて行為(conduct)である。
――この区別は大事だからちょっと覚えておいてね?
本来なら「言論を行った者」として担うはずの責任も免除されるのは、「行為として見ると、場所を提供しただけであり、法的な問題がないから」が理由よ。
もし、第三者が投稿したコンテンツも「プラットフォーム事業者の言論の一部」だと見るなら、「表現の自由」の保護は受けられるけど、名誉毀損や脅迫といった事象が起きた場合には、法的責任を問われるわ。
「その言論を行ったメンバーの一人」にプラットフォーム事業者も数えられてしまうから。
でもそうなるとね?
デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションという検閲も、「言論」じゃなくて「行為」なんじゃないのかと言われてしまう訳よ。
この近辺の議論は、NetChoiceにとって二重拘束状態になっているわ。
「私たちのデプラットフォームやコンテンツ・モデレーションは、私たちの表現・言論の一種であり、表現の自由で保護される」と主張すると、「では、デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションの方法やその結果に法的問題があれば、それは【お前の表現・言論】だと自ら認めている以上、投稿者と一緒になってお前も責任を負うんだな?」と言われちゃうわ。
実際、NetChoiceは新聞社の判例を根拠にして、「編集上の判断」「編集上の裁量権」を主張したけど、新聞社は掲載コンテンツについて法的責任を負ってるからね。
本件で被告となっている州司法長官のパクストンさんは、弁論趣意書で次のように述べているわ。
プラットフォーム事業者は、これまで法的責任を問われそうになると、さんざん「私たちは新聞とは異なる存在であり、場所を提供する"行為"に従事しているだけの仲介者です」と主張してきたわ。
それが今回、デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションが「検閲」として制約されそうになると、「私たちは新聞と同じ存在であり、編集上の裁量権を行使して、自らを"表現"している表現者です(だから「表現の自由」で保護されます)」と主張を真逆に変えている。
苦しいわね? 傍目からもそう思うわ。
じゃあ、と試しに「私たちがやっているデプラットフォームやコンテンツ・モデレーションは、表現・言論の一種ではなく、行為の一種である」と主張したところで、おそらく今度は「では、あなたがたの言う『表現の自由によって私たちの検閲は保護される』という主張は、もはや自ら取り下げたという認識でいいな?」と返されるわ。
上記の資料から考えるに、パクストン州司法長官さんや、本件で「合憲」判定を下した裁判所から見ると、結局、プラットフォーム事業者の主張ってのは、
「デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションは、新聞社と同じく編集上の裁量権(表現の自由)として認めてほしいが、だからといって新聞社と同じく掲載コンテンツに責任は負いたくないから、通信品位法230条の免責はそのままにしてほしい」
という、「あまりにも都合がいい話」に映っているのだと思うわ。
論点④:「善きサマリア人の法理」はモデレーションを擁護するか?
「第三者が投稿したコンテンツについて、プラットフォーム事業者が責任を負わない」理由として、一部では「善きサマリア人の法理」(Good Samaritan Laws)を援用して擁護する論があるのよ。
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