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オキナワの頃 其のニ〈島の暮らし〉

「水牛車ガイド 竹富島 三線に興味あるかた 」これだ!と思ったぼくは即連絡をし、いくらかのやり取りのあと採用の電話をもらって、今はなき有村フェリーで那覇港から石垣島へと旅立った。 ぼくは三線は神奈川にいるときから弾いていて、安里屋ゆんたなどの沖縄民謡や沖縄ポップスの何曲かは弾けるようになっていた。周りの人からもぴったりだと言われ、もうこれだ~!!と意を決して船に乗り込んでいったのだった。

そして、島の暮らしがはじまる。

ぼくは朝起きると自分が面倒をみている水牛を、前日繋いでおいた草むらから水牛車の広場まで連れてきて、また繋ぎなおす。南国の草は物凄い勢いで生えてくるから水牛たちは食べ放題だ。それが済んだら住んでいる家の庭と前の道を竹箒で掃き清める。竹富島の集落内は白砂の道で毎朝、島民みんな庭と道に箒の目をいれるのだ。仕事はのんびりな時もあれば、とんでもなく忙しい時もある。島のおじいたちがレギュラー水牛車ガイドで自分たちのような内地人(ナイチャー)は受付業務をするときもあれば交代でガイドをする。ガイドは観光客を乗せた水牛車で島の家屋や文化の事を話しながら、集落内を30分ほどかけてまわり、最後に竹富島で生まれた沖縄民謡、安里屋ゆんたを三線で弾き語りをするというスタイルだった。

竹富島というところはサンゴの島なので農産物の生産性は低い。そこで島の人たちは、沖縄独特の赤瓦の平屋造りの家とそれを取り囲む石垣、フクギの木を守り、自らの住処を観光資源とすることで生き抜いてきた。島の指導者は何が観光客に喜ばれるかわかっていた人がいたのだろう。新しく家を建てる時もその形は引き継がなければならない。島の人たちが守っているのは家のかたちだけではない。島の伝統文化、歌、踊り、祭事、神事、ウタキ。普段はのんびり朗らかだが、文化的な事をやるときは非常に厳しく真剣な眼差しに変るのだ。伝統的家屋と文化を守り、生きていく覚悟が島の人の誇りだった。

よって会社の指導も厳しかった。八重山には水牛車観光の会社が三つあり、ぼくが勤めたのは八重山ではじめて水牛車を観光にした会社、西表島のユブ島はその後とのことだ(そこも竹富出身の人がはじめた)。もう一社も竹富島で、ぼくが勤めた会社から独立した人がやっている少し自由度の高い会社だった。

                           つづく


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